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ばななさんの本

高校の時の国語の先生の影響で、私の読書の量と幅がとても増えた。
中学の頃はひたすら赤川次郎を読んでいた。赤川さんじゃなくても読んだのはライトミステリーの小説で、誰かが死んだ。犯人は誰だ!的な本ばかり読んでいた。
小学校の頃のルパンや明智小五郎、大どろぼうホッツエンプロッツなどの本から始まった「ミステリー好き」は今に至り、もっと手の込んだ殺人ものにも手を出すようになった。
 そういう物とは違う本を読むようになったのが高校時代だった。
周りに本好きな友人も表れお互いに好きな本を紹介しあい、交換しあったりした。
そして国語の授業ではいつも先生がなんらかの本を持って登場した。
「いやーーーー出たよね!村上春樹の新作!ダンスダンスダンス!読んだ?みんな読んだ?」
ある日は「ばななちゃんの新作でたよ!TSUGUMI!」など。
その先生が教えてくれる古典もとっても面白く、私は当時本気で在原業平に恋をした。漢文がとっても面白いってことも教えてもらって中島敦の本を読んで「むずっ」と思ったことも覚えている。

その先生は吉本隆明氏が好きらしく、いつもその難解な本の説明をしてくれた。私も古本屋で買ってみたけれどさっぱりわからなかった。
常に登場する吉本隆明氏の娘さんの吉本ばななさんが書いた「キッチン」も絶賛していた。こちらはとってもわかりやすくて、そしてなんというか
村上春樹氏の本を読んだ読後感と同じものを感じた。
読み終わったあと、ここではないどこかにいる感覚。
現実になかなか戻って来られない感じ。戻ってきたくない感じ。
それはふわふわの空間で、色は時に灰色だったりパステルカラーだったりするけれど、そんな世界に自分が漂っていたり、時には漂っている自分を外から見ていたり。
とにかく二人の本を読んだ後の特別な感覚は他の本では味わえなかったものだった。
「これオモシロ!」と思って、何度も読むのをやめちゃう本はあっても(読み終えることがもったいなさすぎて、読みたいけれど読めない、となる)
読後にどこかに連れて行ってくれたのは村上春樹さんと吉本ばななさんだけだった。
その後、二人の新作が出るたびにハードカバーで買い続けた。
でも、吉本ばななさんは途中から「あれ、なんか違う」と思うようになった。村上春樹さんの本はいつでも同じ感覚にさせてくれる。だから今でも新作が出たら必ずハードカバーで買う。
でもばななさんを読まなくなって20年以上は経ってしまった。

最近なにかのツールでばななさんの本の紹介が出ていて、読んだ人の感想に「キッチンの読後と同じ」と書いてあった。
あ!ほんと??じゃあ私も読む!と思ってすぐに買った。
キッチンは正直言うとすっかり忘れてしまったけれど、私の中で
ばななさんの本に出てくる女の人の印象は「すごく丁寧に、細かく?密度が濃い感じでありがとうを言える人」だ。私の語彙が足りなくてお伝えできないけれど「ぎゅっとしたありがとう」と言ったら良いのかな。
その「ありがとう」のファンだったと言っても過言ではない。

そして今回読んだ「ミトンとふびん」という小説。
「ばななさん、久しぶり!」という感覚だった。短編集なのだが、途中もったいなくて一つの話を読む度に違う本を読んだりして、美味しいものをちびちび食べるように、なくなってしまうことがもったいなくて、ほんとに少しずつ読んだ。
キッチンはまだ若い女の子が何かを乗り越えてこれから先に向かっていくという、未来に向かっている話だったような気がするのだけれど
今回は終わり方というか片づけ方というかそんなお話の印象だった。
特に、自分のお母さんの形見である珊瑚の指輪をつけたお母さんも亡くなってしまい、そのお母さんが焼いた食器を大切に使ったり、お母さんの残した服やアクセサリーを少しずつ片づけていく話がとってもよかった。
きっちり丁寧に「ありがとう」と言っていた主人公たちが、今回は
少しずつ丁寧にきっちりとお片付けしている感じ。

昔?パソコンのメンテナンスで、使っている容量をぎゅっとする
ものがあったと思うのだけど、その作業中、テトリスみたいに
小さいブロックが集まって、一定の塊になったらぎゅっと圧縮されるというものがあり、それは何十分かかかる作業だったのだけど
その少しずつブロックが集まって圧縮されるという行程を
ずーーーっと眺めていることが好きだった(笑)
今回のばななさんの小説で書かれていたお片付けの風景は、その少しずつ
でも隙間なく圧縮されていく様に重なって、とにかく私のツボだったのだ。

久しぶりに読んだばななさん。
もったいないなと思いながら読み、そして読後はやっぱりふわふわとした
きれいな色の空間に放りだされたような気持ちになった。

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