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マリインスキーバレエ ミハイル・ケミアキン版『くるみ割り人形』 舞台レビュー

ロシア・バレエの挑戦

 バレエファンで『くるみ割り人形』を知らない人はいないだろう。初演は 1982 年のマリウス・プティパ(台本)とレフ・イワーノフ(振付)の 共作によるもので、それに加えてワイノーネン改訂版の2つが、現在世界中でよく上演されている。これら2つをカンパニーごとに改変して上演する場合も多い。

 2019 年 10 月、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場 2 にて上演されたのは、ミハイル・ケミアキン版である。ケミアキンはモスクワ出身の画家・彫刻家。スターリン政権化の社会主義リアリズムに適合できず、ソ連から追放され、芸術家としてのキャリアの大部分をアメリカで過ごした。ソ連崩壊後にロシアへ戻り、バレエ作品にも携わるようになった。

 彼は改訂版くるみ割り人形の課題を、「グロテスクなユーモア、得意性、変容とともにホフマンの精神を脚本に復活させ、視覚的要素をチャイコフスキーの持つダイナミズムに融合させること。」と語っている。プティパの脚本に則りながらも、ホフマンの原作に立ち帰り、独特の『くるみ割り人形』を作り上げたのである。

 ここでバレエ『くるみ割り人形』とホフマンの関係について述べる必要がある。ホフマンは幻想文学の巨匠と言われ、現実と幻想が入り混じる奇妙な作品が多い。本来の『くるみ割り人形』は少し奇妙で恐怖をはらんだ物語なのである。そもそも、「バレエくるみ割り人形の原作=ホフマン」というに認識にも少し間違いがある。ホフマンの『くるみ割り人形』をフランス語に翻訳したアレクサンドル・デュマは、翻訳の際にホフマン特有の毒気を抜いている。冒頭に述べたプティパ・イ ワーノフの初演作はこのデュマ版に則っている。これこそが現在のバレエ『くるみ割り人形』=幸せな物語として世に知られている所以である。

 ホフマンの原作に立ち戻ったケミアキン版はその毒気を取り戻した。そのため、何とも言えない気味の悪さがにじみ出ている。幸せな『くるみ割り人形』を観に来た観客は強く衝撃を受けるに違いない。以下、ケミアキンの作り出す世界観と、ケミアキン版初見の筆者が受けた衝撃を記す。

 聴きなれた美しいチャイコフスキーの音楽とともに幕が上がり、目の前には原色をふんだんに使った色鮮やかな舞台セットが広がる。その華やかさに心が躍るのもつかの間、次から次へと予想外の光景が飛び込んでくる。パーティー会場に並べられたグロテスクな豚の頭、おどろおどろしい怪人の風貌をしたドロッセルマイヤ―、そして長い鼻にぎょろりとした目を持つくるみ割り人形。お世辞にも心地よいとは言えないものばかりだ。「予想していた楽しいくるみと違う……。」と、筆者が知る『くるみ割り人形』とのギャップに戸惑いながらも前半は幕を閉じる。幕間に周りの観客たちをみても戸惑う様子は無く、「1幕で感じた気味の悪さは私の勘違いだったのだろうか。」と自らの心を落ち着けてみた。

 しかし、勘違いではなかった。「私が知っているくるみではない。」と誰もが思うはずだ。パステルカラーで彩られ、一見ファンシーに見えるお菓子の国も、細部にはハチやグロテスクな道化師の顔が並び、非常に気味が悪い。そしてお菓子の国のダンサーたちもなんだかおかしい。ミツバチの女王、くまの耳を着けたスペインの踊り、緑の全身タイツをまとった蛇のアラビアの踊り......。聴きなれた音楽に合わせて美しい踊りが繰り広げられているというのに、どこか奇妙なのである。

 さらに衝撃的なラストが待っていた。煌びやかなコーダが終わり、場面が切り替わる。現れたのは、お菓子屋の中をのぞくドロッセルマイヤ―。彼の視線の先には、何段にも積み重なった豪華なケーキ。 それは、先ほどまで観ていたお菓子の国にあるケーキと同じである。そしてそのてっぺんにはマーシャとくるみ割り人形とみられるお菓子の人形が飾られていた。

 このラストは何を意味しているのだろうか。『くるみ割り人形』の1つのテーマは「異世界への冒険」である。 したがって「元の世界に戻ってくるか否か」の2つのラストが用意されることとなる。この観点に立てばケミアキン版は後者の「戻ってこない」ラストに分類されるのだが、よくある「異世界で王子と幸せに暮らす」というハッピーエンドではないように思う。それには、視点切り替えの演出が起因している。途中まで観客は、クララと同目線で冒険を楽しんでいた。終始クララ目線のバージョンが多いのだが、ケミアキン版はラストでドロッセルマイヤー視点に切り替わる。お菓子屋の窓という隔たりを経て彼(=観客)の目に写るクララと王子は、生気はなくもはや無機質な人形である。もちろんラストの解釈は人それぞれだが、ドロッセルマイヤ―というクララ以外の視点を設けることにより、「異世界で王子と幸せに暮らす少女の話」ではなく、「人形に変えられてしまったかわいそうな少女の話」、そんな恐怖の物語にすら感じられてしまうのである。

 さて、新しいものを生み出すには、既存のものに新しい要素を加える、という方法が定説となっている。既存のものが有名であればあるほど、新しく加えられた要素とのギャップが際立ち面白くなる。であるからこそ、有名すぎる『くるみ割り人形』は、新アレンジにうってつけだ。イギリスのピーター・ライト版のように演劇要素という自国のエッセンスを加える方法もあれば、孤児院を舞台にしたマシュー・ボーンのように大胆な解釈もできる。ケミアキンは、一見矛盾するようだが、「ホフマンの原作に立ち返る」という究極の原点回帰を行うことで、新しい『くるみ割り人形』を生み出したのである。

 今回ロシアを訪れて初めて気づいたことだが、すぐ隣のマリインスキー劇場では、ケミアキン版と同時進行で伝統的なイワーノフ版を上演していた。実際に見比べている人がどれほどいるのかはからないが、新旧の比較が可能な環境を用意できるのは、さすがバレエ大国・ロシアといったところだ。バレエという芸術が花開き、数々の名作が生み出されたロシア。バレエの歴史が濃い故、伝統に固執するのかと思いきや、意外にも新しいものにも積極的な姿勢が見える。バレエ大国・ロシアはまだまだ現役だ。

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