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言牢

■まえがき

通常の更新は本日はお休みさせていただきます。
なにぶんばたばたとしてしまっていたもので。
代わりに再びXにあげていた140字小説の補足版をアップしたいと思います。

■本編

 私は読者のために物語を書いていた。
 それが至上の喜びであると信じていた。だが、彼女は私のそんな理想を惰弱なものとして非難し、私から読者を奪った。即ち、私を牢に捕らえ、私が書いたものを世に出さないようになさしめたのだ。無数の読者の一人一人から読む権利を奪うことは不可能だが、それを提供する私を捕らえてしまえば、一人一人を捕らえたのと同じことになる。
 彼女は賢明であり、かつ狂気を湛えている、と私は思った。
 食事は三度三度与えられるが、朝昼晩でメニューは違っても毎日メニューのルーティーンは変わらなかった。そしてなぜか、毎食つけられるスープはじゃがいものポタージュだった。すべての料理の中でこれだけが味を感じることができた。そうでなければ、料理の味が薄味であることを疑うより、私自身の味覚が破壊されてしまっていることを疑っただろう。その塩辛いポタージュは、私をそうした疑念から救ってくれた。
 彼女は彼女のためだけに、私が物語を書くことを望んだ。始めは私も拒んだ。そんな器用な芸当が私にできるとは思えなかったからだ。私は物語というのは、千人いれば感じ方も千通りあるはずで、特定の誰か、に向けて書かれるのに適したものではないと思っていた。
 だが、彼女は諦めなかった。彼女は私を説き伏せるのにリアリティのある言葉ではなく、物語を用いることに決めた。彼女は自身で物語を編み、それを私に聞かせた。それは多分恋文に近いようなものだったと思う。とても私的な物語。穴だらけで、物語とは言えない拙い、けど真摯な言葉の集まり。
 私は毎日繰り返される彼女の物語に辟易し、根負けして彼女のための物語を書くことに決めた。
 それから短編も、長編も、ミステリも恋愛もファンタジーも、考えられる物語という物語を書いたが、どれ一つとして彼女の気には入らなかった。すべての原稿は私の目の前で引き裂かれて捨てられて、私はその哀れな死骸たちを集めて牢の隅に積んだ。今ではもう天井に届くほどに高くなっている。
 彼女の牢に捕らえられて、どれほどの年月が過ぎたのか、私には分からない。だが、私はたとえ彼女のためであっても、破り捨てられる運命であったとしても、無味乾燥で単調な毎日の中で、物語だけが救いなのだと、物語る行為自体に謂わば宗教的とも言える意義を見出していた。
 彼女はそれすら嫌った。私が私のために書くことを見出したことが不満なようだった。次第に私が物語ることに嫌悪を示し始めた。
 ある日、彼女は私の元にやってきて、書きかけの原稿を取り上げ、破り捨てるとともに、万年筆を叩き折り、インク壺を床に打ち付けて割った。
 私が廃原稿から必要な文字を切り集め、物語を編もうとしているのを見つけてからは、すべての原稿を引き上げて焼き払った。牢の窓からも原稿が燃え尽きていく黒煙が見えた。煙の粒子の一つ一つに文字が溶け、空に物語を編むのだ、と私が陶然として言うと、彼女は慌てて火を消した。
 ペンもインクも紙すらもなくなって、いよいよ私も物語を捨てねばならないか、と目を瞑って静かに耳を澄ませたとき、この身に脈打つインクの存在を悟った。つまり、私は指先を嚙み切って血を流し、流れる血の赤で床に物語を書き始めた。
 その様子を見た彼女は(このとき畳三畳分くらいは書いていた)狂乱せんばかりに泣き叫んで、牢の床に赤いペンキを流し込んで物語を消した。白いペンキで消されたのなら、その上からいくらでも書いてやろうと思ったのだが、赤いペンキではそうもいかない。彼女は牢の中を徹底的に赤で塗りつぶしてしまった。
 私には何もなくなってしまった。この身を流れる血ですら、物語に資することができない。絶望に打ちひしがれていた私の前に現れたのは、一羽の落穂色のつぐみだった。牢の格子戸の向こうにとまり、私を見つめて首を傾げるような仕草をした後で、歌うように鳴き始めたのだ。
 私は天啓だと思った。そうだ、私にはまだ声が残されているではないかと。
 私はつぐみが去ってから、物語を頭の中で組み上げると、牢の壁に刻み付けるように、物語を叫んだ。所詮声ならば消えゆくもの、と彼女もタカを括っていたが、私は語れば語るほど物語が鮮明になっていき、繰り返し同じ物語を叫ぶことができるようになっていった。記憶という誰にも奪うことのできない石碑に、私は私の声という目に見えない筆で文字を刻み込んだのだ。
 彼女もそれに気づき、ほとんど憎悪に近い眼差しで私を睨みつけると去って行き、次に現れた時には牛刀を手に提げていた。
 彼女は牛刀の柄で私の喉を潰し、刃で目を潰して視覚を奪った。私の目が、彼女に抵抗する術を生む考えを与えていたことを、ようやく彼女も悟ったらしい。
 そうして私は、物語る術を失ってしまった。だが、頭の中で物語を編み続けることはできる。そしてそれは私が他言しない限り彼女には分からないし、言葉にする機能は損なわれている。彼女はもう、私を殺すことでしか私から物語を奪うことはできない。
 皮肉なことに、伝える手段を失って初めて、彼女のための物語を編むことができたのだから、この世に無駄な差配などないのだ。
 彼女の足音がする。重く、憂鬱な足音。
 私は頭の中で、彼女のための物語を繰り返し続ける。それが彼女自身の手によって闇に葬り去られる、その日まで。

〈了〉

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