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ゆうぐれあさひ

 夕方になると、夕日を見に行きます。
 何を当たり前な、となるかもしれませんが、わたしの夕日は晴れ空でも雨空でも見ることができるのです。もやもやしたときには、夕日を見るに限ります。
 もやもやしているのは、職場のゲーテさんのせいです。
 わたしは都内の駅前にある、こじんまりとした書店で働いています。ショッピングビルがにょきにょきと竹のように林立する中にあって、竹になり損なった筍のように小さな店です。そこには正社員が二人いて、一人が「ゲーテさん」とわたしが勝手に心の中で呼んでいる二十五歳の男性店員です。
 ゲーテさんはけっしてゲーテに顔が似ているわけでも、愛読書がゲーテなわけでもないのです。ある日の休憩時間、彼は文庫本を読んでいました。鹿の子模様の布カバーをしているせいで、本のタイトルは分かりませんでした。
「何を読んでいるんですか」と何の気なしに訊いてみたのです。まだそんなに打ち解けてはいなかったけれど、彼はそうしたことを訊いても気分を害さない安心感がありました。
 彼は本を広げたまま上からのぞき込んだり、下から見上げてみたりして、「僕は何を読んでいるんでしょうね」と屈託なく笑いました。その笑顔を見たとき、「若きウェルテルの悩み」をどういうわけか思いついたのです。まさかウェルテルがそんな笑顔で苦悩してたわけでもなし、どういう理屈でウェルテルが出てきたのか、わたしにも分かりません。でも、そのときから彼はわたしの中でゲーテさんになったのです。
 ゲーテさんはさながら人間検索機でした。あの本は、と問うと、どこそこの右から何冊目にあります、と答え、じゃあこの本は、と問うと、昨日売れてしまったばかりです、と心底申し訳なさそうな顔をする、といった具合です。
 そんなゲーテさんを、年下ながら尊敬しています。本当に本が好きなんだな、というのが一緒に働いていてひしひしと伝わってくるのです。休憩中だって、暇さえあれば本を読んでいるし、目ぼしい本が出ているとゲーテさんが真っ先に買っていきます。
 ある日ゲーテさんから話があります、と真剣な顔で言われたので、年甲斐もなくどきどきしながら喫茶店について行きました。書店正面のロータリーから伸びる三本の道の内、真ん中の一番細い道を通り、紫の看板で「ラヴフール」と書かれたスナックの向かいの路地を曲がると、小さな喫茶店があります。喫茶店「バルザック」。ゲーテさんにバルザックとはこれ如何に。
 カウンターの上には三毛猫が寝そべっていて、ワインのボトルのラベルをじいっと眺めて身じろぎもしませんでした。この三毛猫こそが、この店の看板猫の「バルザック」らしいのです。
「翠(みどり)さん」「はい」、返事がほとんど同時になってしまいました。
 彼は緊張していました。真っ直ぐにわたしを見ていたけれど、視線を逸らしたがってそわそわとしているのが丸わかりだったし、声も震えていました。その震えが伝染したのかわたしまで声が上擦ってしまいました。
 ゲーテさんは万人受けする男前、というわけではありません。でも、一部の界隈ではモテそうでした。穏やかさがカーディガンを着て歩いているような人なのです。きっとゲーテさんなら恋人のこともそれは大事にするのだろうなあ、とちょっと羨ましく思っていたのは内緒です。
 でも、浮気するわけじゃないけれども、ゲーテさん、いいなあ、と思っていたのは事実でして。だから呼び出されたときにはもしかして、と期待する気持ちと、まさかあ、と自分を律して現実に引き戻す気持ちがせめぎ合っていて、頭の中がおもちゃ箱をひっくり返したみたいにぐちゃぐちゃでした。
 だけど、彼のこんな緊張した真剣な顔を見させられたら、拮抗していた現実と欲望が破綻しそうになります。ああ、だめだ、と破綻した亀裂から妄想が次々と漏れ出て、ふわふわとわたしの周囲を漂っています。この収拾どうつけてくれましょう。
 そんな内心の葛藤などいざ知らず、彼は抜き身の刀をえいやっと大根でも切るように振り下ろすに等しい言葉をわたしに浴びせました。
「小説を書いてみませんか」
 一瞬何を言われているのかさっぱり分かりませんでした。彼の上気した頬と小説という言葉が結びつかなかったということもあります。一度深呼吸して、指をぴっと一本立てて彼に突きつけ、もう一度お願いします、と頭を下げました。
 彼は意を決して、息を深く吸って、気持ちを落ち着けて、今度は一音一音ゆっくりはっきりとやはり言ったのです。「小説を書いてみませんか」と。

 モザイクタイルの壁に描かれた富士山には夕日がかかっていました。アパートから五分の銭湯「彩の湯」。
 わたしが彼氏と同棲しているアパートにはお風呂がありません。トイレは辛うじて共同のものがありましたが、男女二か所ずつしかなく、朝は争奪戦でした。男子は男子で中島くんという男子大学生がローリングストーンズを満足して歌い終えるまで出てこないので、大変そうでした。
 「彩の湯」は壁面によくある富士山の絵を描いていましたが、それがなぜか夕暮れの富士山でした。太陽は稜線に沈みかけ、山肌を橙色に染め上げ、空はオレンジと紫がせめぎ合った不思議な色合いが特徴的でした。
 わたしはこの絵を見ていると、ああ、終わるんだなあという感慨をいつも抱きます。楽しいことも、悩んでいることも、いつかは必ず終わって夕暮れがやってきて、眠りにつく。
 アパートは八畳一間で、申し訳程度にキッチンがついていました。人間二人布団を敷けばそれだけでいっぱいになってしまうのですが、彼が骨董品市で、江戸時代にでも使われていそうな書机を買ってきて、それを窓際に据え付け、本を山積みにしておくものだから、わたしは半分キッチンにはみ出して寝ていたのです。冬は特に冷えました。
 彼はもう五年も小説家になることを夢見て何かを書き続けていました。出来上がっては読ませられるのですが、わたしにとって、それは「何か」でしかなく、小説ではなかったのです。今時パソコンで書くことを拒み、ペンと紙さえあれば書けると豪語しているのだけど、書き損なった紙の山をゴミ袋に入れて捨てるのはわたしの役割でした。
 一緒に銭湯など、もう何年も行っていません。会話だってろくにないんです。部屋を出てくる前に回鍋肉と味噌汁を作って出してきましたが、「うまい」とも「まずい」とも言いません。ただ黙って機械のように口に運ぶだけです。
 彼は牛丼屋で週に二回アルバイトをしていました。それも手際が悪い、愛想がないと注意され、耐えられずに辞めてきてしまうのです。そんなことをもう十回近く繰り返しています。わたしには、彼は現実の中で生きていない、そうとしか見えません。
 彼は今誰とも接しません。一緒に暮らしているわたしとさえ、触れ合うことはないのです。夜眠っていて、そっと手を伸ばして繋ごうとすると、まるで蛇のようにするすると布団の中を引っ込んでいってしまうのですから。
 わたしたち、今年で三十だよ。
 湯船の中に身を横たえながら、わたしは呟きました。
 こうなってしまったのは、いつからだったろう、振り返ります。
 彼は区役所で働いていて、わたしはその向かいにある花屋で働いていました。
 いつも決まって一輪の花を買っていく人でした。花の種類は何でもよく、ただ一輪だけ買っていく不思議な人でした。季節が一巡りした頃、水族館のチケットを渡されて告白されて、なあんだ、そういうことか、とほっこり心が温かくなったのはいい思い出です。
 付き合うようになり、やがて結婚を意識しだしたとき、転機が訪れてしまいました。
 彼が趣味で書いていた小説が賞をとったのです。けれど、それはティーンズ向けの賞で、有名文芸誌の賞のように箔がつくようなものではありませんでした。でも、彼はそれで有頂天になってしまったのです。区役所からは、副業としては認められないと却下されてしまったものだから、彼は憤慨して即日で退職届を提出し、区役所を辞めました。わたしに何の相談もなく。
 一時的には賞金が入りましたけれど、定期収入はわたしに依存するようになりました。そうすると、それまで住んでいたところには住めません。どんどんアパートのグレードを下げて、下げてたどり着いたのが今のアパートです。それでも生活はぎりぎりでした。昨今の物価高の打撃はかなり大きいものでした。まともな食卓を維持するのが難しくなっていて、少しでも安いものを求めて自転車を走らせてスーパーをはしごする、なんてことはざらです。
 彼はそんな生活の「苦」の部分を見ません。見るのは「夢」ばかり。起きていても、寝ていても。わたしが現実を見なかったら、とうに生活は破綻していたでしょう。
 湯の中で腕と足を伸ばします。関節に凝り固まった見えない淀みのようなものが流れて、指先や足先から溶け出ていくように感じます。
 行儀が悪いなとは思いつつ、はあーっと深く息を吐いて、頬を湯につけました。そうすると自然と耳も湯に浸かる形になり、給湯のごうごうとお湯が送り出される音や、誰かが湯の中で動く水の蠢きのような音が聞こえるのです。
「翠さん、また変なことしてる」
 声が聞こえて、顔を上げるとそこには仁王立ちした小学六年生の朝陽ちゃんがいました。
「朝陽ちゃんこそ、そろそろ恥じらいをもたないと」
 はん、と鼻もひっかけず、朝陽ちゃんはざんぶざんぶと湯に分け入ると、わたしの隣に腰を下ろしました。最近の子は発育がいいなーと朝陽ちゃんとわたしとを見比べて、なんだかやるせない気持ちになります。
「また何か悩み事?」
「え。なんで分かるの」
 朝陽ちゃんは悪戯っぽく歯を見せて笑って、「だって翠さん。悩んでるときああやってお湯に耳つけてるから」とわたしの顔を覗き込みました。その目はお見通し、と語っていました。
「あたしでよければ聞くけど?」
 うーんと考えて、「朝陽ちゃん、今欲しいものってある」と訊いてみました。それと悩み相談が繋がらなかったのか、朝陽ちゃんは怪訝そうな顔をしながらも「スマホ、かな。持ってる子多いし」と答えました。
「じゃあさ、そのスマホがさ、欲しがってる朝陽ちゃんじゃなくて夜華ちゃんの方に行っちゃったらどう?」
 夜華ちゃんというのは朝陽ちゃんの五歳下の妹です。この娘が朝陽ちゃんに輪をかけた生意気娘で、親も手を焼いて悲鳴を上げているらしいのです。
「ははあん。なるほどな。翠さんは欲しくないのに与えられて、多分彼氏さんでしょ。彼氏さんは欲しいのに巡ってこない」
 う、さすが鋭いな、とわたしは身構えてしまいます。鋭いだけに、そこから飛び出る言葉は容赦がないのです。子供だからなおさら、抜き身の刀で相手を斬ればどういうことになるかという想像がつかないだけに怖い。
「でもさ、そんなの縁じゃん。縁。翠さんには縁があって、彼氏さんには縁がなかった。それだけでしょ」
「そう、割り切れないんだよ、朝陽ちゃん。大人ってやつはさ。彼がどれだけ欲しがってたか知ってるだけにね」
 朝陽ちゃんは顔をぱしゃぱしゃとお湯で叩いて洗って、「縁は遠だよ、翠さん」と濡れた指をわたしの鼻先に突きつけました。
「縁っていうのは『エン』同じく遠いって字も『エン』。同じなんだよ。縁ってのはさ、基本的に遠くにあるの。だから『遠』。でもね、誰かの遠くってことは、誰かの近くなんだよ。今回それがたまたま翠さんと彼氏さんの間で起こっただけで、日常的にありふれてることなの」
 んでね、と朝陽ちゃんは続けました。
「『近』は『キン』だよ。同じ読みをする字は『金』だよ。何も金になるってわけじゃなくて、本来遠いはずの縁が近くにある。それはとても価値があるってこと」
 だからね、翠さん、と朝陽ちゃんが真面目な顔をすると、途端に大人びて見えます。まるで同年代の友達を相手に喋っているようです。
「あたしは翠さんの前にあるチャンスを掴むべきだと思う。彼氏さんがすねちゃったとしてもね」
 すねる程度で済めばいいけれど、と考えつつも、一度再起不能なくらいずたずたにならないと、彼は現実に帰ってこないのでは、とも思うのです。
 わたしには難しいことは分かりません。小説ってなに、と聞かれれば、なんだろうと一緒に首をひねってしまうでしょう。そんな浅学なわたしでも分かることはあります。小説を書くということは、生産する行為です。読んだ本、人と話した会話、見た景色。そうした小さなものが自分の中に降り積もっていって、書き手はその灰の山をかき分けて書くべきものを探し、形にして世に出すのではないでしょうか。
 でも、彼の生活は消費するばかりです。わたしから出されたものを食べ、わたしが敷いた布団に寝て、わたしが用意した着替えを持って銭湯に行く。誰とも会話しない。彼の中には何も蓄積しない。それで、何が生み出せると言うのでしょうか。
 わたしの中では、彼は生涯を共にする人では最早なくなっていました。現実的な生活を送るヴィジョンが見えないということもあるし、彼の歩く道は今もこの先も真っ暗闇です。わたしは怖くてそんな道について行けません。
 でも、彼はそうじゃないのです。道が暗いということすら認識していない。それくらい生活のすべてをわたしに依存している。彼の生活からわたしを引けば、まるで荒涼とした荒野のような暮らしが残るばかりでしょう。わたしは一生荒野で咲かない花に水をやり続けるのはごめんこうむります。
 でもね、わたしに小説なんて書けると思う、と弱音を口にすると、朝陽ちゃんはまじまじとわたしの顔を見つめながら、
「あたし、翠さん小説家に向いてると思うなあ」としみじみと言いました。
 またそんな無責任な、とわたしは苦笑しました。
「ほんとほんと。だって翠さん、ここの銭湯に初めて来て、富士山の絵を見たとき、『朝陽ちゃんみたいだよね』って言ってくれたじゃん」
 そんなこと言ったかな、とわたしは気恥ずかしくなって頭を掻きました。
「この絵って夕日の絵だけど、朝日の絵にも見えないかって。昇るのも沈むのも実は行為としては同じで、朝陽ちゃんが憎まれ口を叩くのも同じだね。だからありがとう、朝陽ちゃん。励ましてくれてって」
 覚えています。はっきりと。あれはわたしのお腹に初めて宿った子が、ひと月で流れてしまった後のことでした。わたしは誰にもそれを言うつもりはなくて、でも、共に悲しみを分かち合ってほしい相手はわたしの方を見ていなくて。そんなことをぐちゃぐちゃ考えていたら、銭湯で隣に座った朝陽ちゃんのママに泣きながら打ち明けていました。
 朝陽ちゃんママはうんうんと話を聞いてくれました。私もね、二回あるの、と打ち明けてさえくれました。この痛みと悲しみはあなただけのもの。だから、大事に小箱に入れてとっておきなさい。悲しみもね、忘れた方がいいものと取って置いた方がいいものがあるのよ、と頭を抱えてくれたのです。朝陽ちゃんママの体からは、火照った熱と、人肌の甘い匂いがしました。
 そこへ当時は四年生だった朝陽ちゃんがざぶんと飛び込んできて、「悲しみよこんにちはって本知ってるか」と大声で叫んだものだから、頭を洗っていた煎餅屋のヨネさんも頭を泡だらけにしながら振り返っていました。
「読んだことはないけど……、サガンね」
「誰が書いたかなんて知らん」と朝陽ちゃんは当時まだない胸を張って堂々と言いました。
「けどな、悲しみはあいさつして迎えるものってことでしょ。でも、あんたの彼氏は悲しみが来てるのにあいさつもせん。母ちゃんはよく言ってる。あいさつできん大人にろくなもんはおらんと。あんたがしなきゃいけないのは、悲しみが来てるんだから、あいさつぐらいしろ、と彼氏をぶん殴るか、あいさつもできん男はいらんと彼氏を捨てるかのどっちかよ」
 びしっと指をさして決めましたが、その後すぐに朝陽ちゃんママの拳骨が振り下ろされて、朝陽ちゃんの顔は痛みにひどく歪み、ほとんど泣き出しそうになっていたのが可笑しくて仕方ありませんでした。
「あんたのは屁理屈って言うの。まったく口ばっかり達者になって」
 ほほほ、と朝陽ちゃんママは口元に手を添えて笑うと、まだ喚いている朝陽ちゃんを引っ張って出て行きました。わたしはその引きずられていく朝陽ちゃんに、先ほどの絵のことと感謝を告げたのでした。
「そうだったね、ありがとう朝陽ちゃん。あなたはいつもわたしに進むべき道を教えてくれるよ」
 そう言うと朝陽ちゃんは頭を激しく振って、すっくと立ちあがり、左手を腰に当て、右手を真っ直ぐに伸ばして人差し指をわたしに突きつけました。「翠さんはね、道を知らないんじゃない」とよく響く声で言いました。
映写技師の静子さんが脇の下を洗いながらにやにやしながら見ていました。静子さんはいつも髪をひっつめていて、銭湯に入る時だけおろし髪になるけれど、それがどうしようもなく色っぽくて、わたしは好きでした。
「翠さんはね、いつも自分が進むべき道の前に立っているんだよ。でも、自分で気づいてないふりをしてる。自分がそんなに利口じゃないと思ってる。馬鹿にしちゃいけないよ。翠さん自身が、自分を認めてやらなきゃ、可哀想じゃんか」
 朝陽ちゃんは耳まで真っ赤になりながら、走って出て行きました。危ないよ、と注意する暇もないくらい、あっという間のことでした。
「自分で自分を認める。口で言えば簡単だけど、難しいんだよね、これが」
 静子さんが頭にタオルを乗せて、湯船に滑り込みます。日に焼けた褐色の肌が健康的できれいでした。
「あたしはフィルムを回してるとさ、色んな人生が見えるわけだよ。そしてみんな、そんな他人の人生が見たくて劇場にやってくるわけだ。あたしがフィルムを回さなきゃ、すべては始まらない。そう考えたら、自分の仕事に少しは誇りがもてるようになったよ。あんたは、小説だっけ?」
 ええ、そうです。と頷きました。
「あんたが書けば始まる。始まれば、後は回るだけさ。映画と一緒。あんたがしなきゃいけないのは、エンドロールまで走り続けることだけ。他のことは余計だよ」
 からからと静子さんは笑って、わたしの背中をぴしゃりと叩きました。「あんたは自分に自信をもっていい。それだけは確かだよ」
 はい、と返事をして、わたしは立ち上がりました。朝陽ちゃんのように仁王立ちして、夕日の富士山を見上げ、頬を二度ぴしゃりぴしゃりと叩きました。静子さんが「女はそうでなくちゃ」とけたけたと笑っていました。

 わたし、書きます。
 休憩室で手作りのお弁当を食べていたゲーテさんに向かい側から、乗り出し気味にそう言ったら、ゲーテさんはきょとんとして卵焼きを弁当箱の中に落としていたけれど、やがて嬉しそうな笑顔になって「そうですか」と深く頷きました。
「勝手ながら翠さんなら、そう言ってくれると思っていました」
 ゲーテさんの傍らにはゲラ原稿が置いてありました。わたしも見覚えがあるものです。「あれ、それって」と指摘するとゲーテさんは頷いて、「翠さんには経緯を説明していませんでした。随分と失礼な物の頼み方をしてしまいました」と律儀に頭を下げました。
「この原稿は翠さんもお読みになったものです。それで、帯につけるコメントを送っていただいたものですね?」
 わたしは頷きました。コメントが採用されたことは出版社から連絡がきて知っていました。
 書店には新しく出版される本の帯などにコメントをつけるため、ゲラ読みの依頼がくることがあります。手間もかかるし、基本は流される仕事なのですが、わたしにはまだ書店に並んでない本を読めるというだけで魅力的でした。
「それで、この新人の担当が翠さんのコメントを読んだ瞬間目の色を変えちゃって。この子、小説を書かせた方がいいわって。彼女は売る人間じゃなくて書く人間よって、夜中の二時ですよ。僕のところに電話かかってきたの」
 それは申し訳なく、と頭を下げると、ゲーテさんは苦笑して「翠さんのせいじゃないです。彼女、三枝(さえぐさ)さんって言うんですけど、一つのものに熱中するとほかのものがどうでもよくなっちゃうというか」
 ああ、いますよねえ、そういう人と苦笑して頷きました。
「この間なんか息子を塾に迎えに行く途中で、新人の子に書かせるのに向いた題材を思いついたっていうんで、息子を置き去りにして新人の子のマンションまで行ったんですよ。それが栃木ですよ。栃木の日光市って知ってます? 面積ばかりやたらでかい市。紅葉のシーズンになるとやたらテレビの特番でやるじゃないですか。あそこです。着いたのが午前三時だったって言ってましたね。さすがに先方のご両親から非常識だと大目玉だったらしいですよ」
 あの、それで息子さんは。わたしは心配になってしまいました。寒空の中ぽつんと立った男の子の映像が浮かびます。
「ああ、大丈夫です。彼も慣れたもので、電車を乗り継いで僕のアパートまで来て、お母さんの例の発作だから、泊めてくれる? って訪ねてきて。朝までスマブラやってましたよ」
 脱線しちゃいましたね、とゲーテさんは頭を掻きました。
「その三枝さんが見込んだので、僕としてはぜひとも翠さんに小説を書いて欲しかったんです。でも、これは三枝さんには内緒にしてほしいんですけど、彼女が目をつける前から僕はあなたの書いた小説が読んでみたいと思っていました」
 囁くように、悪戯っぽく言ったゲーテさんの言葉にどきりとさせられてしまいます。わたしは「どうしてです」と短い言葉を紡ぐのがやっとでした。
「ポップですよ。あなたのポップには物語があります。ただの宣伝文句じゃない、書き手の物語がそこには込められていた。だから僕は、あなたに注目していたんです」
 わたしは嬉しくて、心の底からほこほこと温かく湯気が立ち上ってくるように感じていたけれど、気になっていることがありました。それまでのわたしなら訊かずに済ませたかもしれません。でも、訊いてしまえ、と朝陽ちゃんがわたしの背中をドロップキックした気がしました。
「三枝さんとはどういう関係なんですか?」
 ああ、とゲーテさんは苦笑いして、「内緒ですよ」と念を押すのでどきりとしてしまいます。
「高校時代の先輩の奥さんなんです。先輩も編集者だったんですけど、事故で亡くなってしまって。僕はどちらかというと息子の朝日くんと関わりが多いですかね。泊めてあげたりとか。三枝さんから連絡がきたのは三年ぶりくらいです」
「息子さん、朝日くんって言うんですか」
 ええ、と不思議そうな目でゲーテさんは頷きました。朝陽ちゃんと朝日くん。
「生意気盛りでね。中学二年生で。彼に言われて僕もだいぶ生活を改めましたね。部屋は綺麗に片付けるようにしましたし、自炊も始めました。ランニングも日課に取り入れて。それでもまだ彼女ができないんですね。すると朝日くんは『うっかりしてるから、彼女になってくれる人もどっかで見落としてんじゃないの』って、そう言うんです。いくら僕だって、そんなにうっかりしてませんよねえ」
 同意を求められて、思わずくすくすと笑ってしまいました。あなたがうっかりしていてくれて、よかったとわたしは微笑みます。
「ああ、そういえば、お住まいってどの辺りなんですか」
「僕ですか。ええと、この辺ですかね」
 ゲーテさんはスマホで地図を表示して、指し示してくれました。わたしのアパートとは、ちょうど彩の湯を挟んで対角線上の位置です。職場からも近くでした。
「近くのアパートで空きがあるところとかってありませんか」
「引っ越すんですか」とゲーテさんは驚いたように言って、言いにくそうに、「お一人ですか、お二人ですか」と遠慮しいしい訊くので、逆に堂々と「一人暮らしで探してます」と胸を張りました。
 ゲーテさんはどこかほっとした顔をして、「僕のアパートには空きがないんですけど、近くに知り合いが大家をやっているアパートがあります。そこなら」と言うので、わたしは二つ返事でぜひお願いします、と彼の手をどさくさに紛れて握って言いました。
 しばらく手を放さずにいたので、さすがに恥ずかしくなってわたしは手を引っ込めて、えへへと愛想笑いをして、シフトに戻りますね、と頭を下げて休憩室を後にしました。
 ゲーテさんはシフト終わりまでにアパートの地図を描いておいてくれて、先方にも連絡して了承を得たということで週末に訪問することになりました。ゲーテさんもその日は立ち会ってくれるので一安心です。

 ゲーテさんの地図を頼りにアパートにたどり着いたとき、よく見知った人が軒先を掃いていて、「あれ?」と思いました。向こうでもそれは同様だったようで、「まさか」と口に出した言葉が重なったのが可笑しかったです。
 お互いが理解すると、朝陽ちゃんママは「あらあらあら」とけらけら笑いながら手を口に当てて笑っていて、わたしは「内見とかいらないです。ここに決めました。よろしくお願いします」と持ちうる限りの荷物をまとめてきて正解だったなと深々と頭を下げました。
 遅れて車で到着したゲーテさんは、にこにこしながら顛末を聞いて、「小説のようだねえ」と朝日を眩しそうに眺めていたし、朝陽ちゃんは二階の窓から身を乗り出して、「これも『縁』だ。『遠』で『近』で『金』なんだ」と叫んでいました。
「彼氏はぶん殴ってきたのか!」と朝陽ちゃんは窓のサッシに足をかけて拳を掲げて叫びました。
「あんたの書くものはつまらないから、ちゃんと働けって言ってきた!」
 わたしがガッツポーズをして笑うと、朝陽ちゃんものけ反って笑って、「おおう、ボディブロー、ストマックエイク」と謎の英語を高らかに叫んだせいで、後ろに盛大にひっくり返って、ガラス製の何かが割れる音がして、朝陽ちゃんママの「朝陽っ!」という怒号が響き渡りました。
「書き終えたら、まず僕に読ませてください」
 ゲーテさんはわたしの隣に並んで、肩が触れるか触れないかの距離でわたしをかすかに見下ろしながら言いました。
 わたしが彼の顔を見上げると、顔を赤くして、わたしから目を逸らしていましたが、やがて意を決してわたしの双眸をしっかりと捉えて、「あなたの言葉に最初に触れるのは僕がいい。それはわがままでしょうか」と恥ずかしそうに言いました。
 このとき、書き出しが決まったような気がするのです。

 始まりは言葉でもなく、声でもなく、目でした。あなたの目の中に、わたしはあるべきわたしを見た気がするのです。

〈了〉

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