見出し画像

遠い水平線

著者 アントニオ・タブッキ
訳 須賀敦子
出版 白水社

《存在した》という状態は、いわば《第三類》に属していて、《存在している》とも、《存在していない》とも、根本的に異質なことである。
ウラディミール・ジャンケレヴィッチ
遠い水平線 アントニオ・タブッキ 序文


何度目かの再読。
この作品は、個人的にタブッキ作品群の中で最も僕の感性に合う作品であり、とても好きだ。
あまりにも好きすぎて2冊ある😳

この作品はもともと『失われた遺体』というタイトルで、全く内容の異なる小説であった。イタロ・カルヴィーノに原稿を見せたところ、有益な意見や指摘を含む長い手紙が送られてきたという。その数年後に書き直したものが『遠い水平線』である。完成品に手を加えることをしない/満足しないなら出さない方がましというタブッキのスタイルには珍しいケースだった。

あらすじ

死体置き場の番人スピーノの元に、ある夜、身元不明の青年の死体が運ばれてくる。
スピーノはその青年の生前を何故か知りたくなり、男の過去を辿ろうとする。
断片的に辿られる男の過去がスピーノ自身と重なっては離れ、また重なる。

考察のような何か

他の方の考察もお聞きしたい点
・スピーノにとって、ヘカベとは?
・フクロウと天使は何のメタ?
・スピノザ「エチカ」における善悪とコナトゥス
・スピーノは鍵を置いて、出かけるが、戻ってくるのか?

ヘカベについて

ヘカベは前後の脈絡なしに出てくる。
🍀
『ヘカベ』は、古代ギリシアのエウリピデスによるギリシア悲劇の1つ。 トロイア戦争終結後、トロイア王プリアモス妻で、アガメムノーンの奴隷となったヘカベーが、息子ポリュドーロスを殺したトラキア王ポリュメーストールに復讐する様を、ケルソネーソスの浜辺の幕舎を舞台に描かれる。
wikipediaより引用
🍀

ヘカベの話は身元不明の青年は銃で撃たれて亡くなったことからのスピーノが思い浮かべた彼の家族にとっての残像かもしれない。

シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の第二幕でハムレットが叫ぶ。

「目には涙をため、なりふりかまわず、声はとぎれとぎれ、その一挙一動がすべて、心に描く人物と一致しているのだ。しかもそれがすべて、空ごとのためなのだ!  何と不思議な事ではないか?ヘカベのためか!ヘカベが彼にとっていったいなんだ?  ヘカベにとって彼が何だ?」
—『ハムレット』シェイクスピア著

タブッキはこのシェイクスピアのハムレットのセリフを引用し、スピーノにとっての青年とは何なのか(メタとして)スピーノ自身に思索させている。(2021/10/20追記)

そして、夕暮れの中で、ヘカベのメモは風にはためく。

2022年2月24日を受けての感想はInstagramにて。

フクロウと天使について


タブッキはあとがきでスピノザの目の中には水平線があったと残しており、それと同様にスピーノの目の中にも水平線があったと言っている。

遠い水平線はスピノザの目のメタとして僕は考えている。

光=天使、闇=フクロウ 墓碑すなわち青年の死の象徴=真理

最初、青年の死体が運ばれてきたとき、彼は犯罪者たちの仲間に殺されたとされている。しかし、スピーノは生前の青年に対し、偏見のない想像をする。

スピノザの考え方を借りれば、物や人、それぞれ単体においては、善悪はない。それぞれ同士の組み合わせによっての結果が善と悪である。

前半での青年の情報は

銃撃を受けて死んだ
偽名を使っていた

これに対してスピーノの調査から

結婚していた
アルゼンチンにいた少年期
仕事にまじめであった

ことがわかる。

善および悪の認識は我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない
「エチカ」スピノザ第4部定理8

そうした中で、フクロウと天使を考えた場合、「肉体は死すとも、徳は死なず」と書かれている墓地でのフクロウと天使は、死体の青年、青年自体のスピノザのコナトゥス(人間そのもの本質がもつ力)のメタではないかと僕は捉えている。

おのおのの物が自己の有に固執しようと努めるコナトゥスはその物の現実的本質にほかならない。
「エチカ」スピノザ第3部定理7

スピノザのコナトゥス(あらゆるものには自分を維持しようとする力)における善とは、それを助けるもの。

本質は力すなわちコナトゥスである。

フクロウと天使に見守られる青年は人の心に生じる欲望の倫理の在り方、人の本質そのものなのか?

真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。
「エチカ」スピノザ第2部定理43

実に、光が光自身と闇とを顕すように、
真理は真理自身と虚偽との規範である。
「エチカ」スピノザ第2部定理43備考

知識としてあっても、「こういうことか」と正確に知る事、体験する事が真の観念を有するといえる。
スピーノは生前の青年を追従することで、真理を得る。

光=天使、闇=フクロウ 墓碑すなわち青年の死の象徴=真理

スピノザはエチカ第4部「人間の隷属あるいは感情の力について」において、このように序文で言っている。

善および悪に関して言えば、(中略)思惟の様態すなわち我々が事物を比較することによって形成する概念、にほかならない。
なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。
例えば、音楽は憂鬱の人には善く、
悲傷の人には悪しく、
聾者には善くも悪くもない。
「エチカ」スピノザ 第4部 人間の隷属あるいは感情の力について
序文より

スピノザと遠い水平線

スピーノ/青年=スピノザ

スピノザはエチカにて、汎神論を展開している。神とこの世界とは同じであり、虫や自然にも神が宿っている、あるいは神の一部であるとする考え方。
全て神の一部ならば、青年もスピーノも神の一部に過ぎない。青年をスピーノが重ねていくことも何となく分からなくもない。
(タブッキがエチカを支持していたかは分からないが、はっきりと「スピノザが好きであることを否定しない」とあとがきに残している)

スピーノは、仕事柄、常に他者の死と隣り合わせにいる。
全く自分の生死とは関係のない、他人の死を見続けてきたことを考慮すると、彼が自身の生死、ひいては、自分とは何なのか?存在とは何なのか、を考えるのは自然であろう。

スピーノの目に映る水平線


直感では解る何か、空と海、大地との今にも一つになりそうな夕暮れ時の水平線で、
自分の中のヘカベとは何か、
自分とは何なのか、
スピーノは、身元不明の青年の死体の生前の何かを探すうちに、自分の中での何かを探していた。生と死、
自分と他人、
自分の中の他人、他人の中の自分、
全て水平線のこちら側とあちら側であり、何かで繋がり、手を伸ばせば届くような近さを保つ遠い対極にあるものだ。

最終的に、スピーノは鍵をいつもの場所に置いて、出かけるが、水平線のあちら側へ行ってしまい、僕は二度と彼が帰ってこないように思える。

生と死は、たった一つの水平線で区切られているにすぎない。そしてその水平線は空と海を夕暮れ時、一つに交わらせる。

生と死の水平線の完全性は一般的観念では説明するようなものではない。
生と死や自然物において、完全性はない
のだ。

人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に基づくよりも偏見に基づいていることが分かる。
「エチカ」スピノザ

タブッキの著書は全て好きだが、とりわけこの『遠い水平線』は、僕の人生の中でとてつもない影響を与えた大切な一冊だ。

🍀🍀🍀
ものにはそれ自体の秩序があって、偶然に起こることなど、なにもない。では偶然とは、いったいなにか。ほかでもない、それは、存在するものたちを、目には見えないところで繋げている真の関係を、われわれが、見つけ得ないでいることなのだ 
『遠い水平線』 アントニオ・タブッキ
🍀🍀🍀

偶然からの必然、人との繋がり、「自分」を維持するとは何なのだろうか

人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし、またその限りにおいては同一の人間でさえ変わりやすくかつ不安定である。
「エチカ」スピノザ第4部定理23

自分の事を理解していくことでこそ自由が生まれ、変化していく。
自分自身の変化・変容にこそ真理があるとしたスピノザ。
スピーノは身元不明の死体の青年を追いかけることによって自分自身の中の何かを変化させていったのかもしれない。

自分自身を維持するというのは、緩やかに変化していくことでもある。

だから、僕は最後、スピーノがカギを置いていった家には戻らないと思うのだ。

私を知るものはこの瞬間よりほかなにもなく
私の憶い出さえ無だ 私は感じる
現在(いま)の私と過去の私が
それぞれ異なる夢であるのを
リカルド・レイス(フェルナンド・ペソア)

アントニオ・タブッキ 略歴

1943年9月23日 イタリア ピサにて誕生
2012年3月25日 ポルトガル リスボンにて永眠(68歳)

主な作品
イタリア広場 Piazza d'Italia(1975年)
Il piccolo naviglio(1978年)
逆さまゲーム l gioco del rovescio e altri racconti(1981年、短篇集)
島とクジラと女をめぐる断片 Donna di Porto Pim(1983年)
インド夜想曲 Notturno indiano(1984年)
Piccoli equivoci senza importanza(1985年)
遠い水平線 Il filo dell'orizzonte(1986年、短篇集)
ベアト・アンジェリコの翼あるもの I volatili del Beato Angelico(1987年)
Pessoana Minima(1987年)
I dialoghi mancati(1988年)
Un baule pieno di gente. Scritti su Fernando Pessoa(1990年、エッセイ)
黒い天使 L'angelo nero(1991年、短篇集)
レクイエム Requiem(1992年)
夢のなかの夢 Sogni di sogni(1992年)
フェルナンド・ペソア最後の三日間 Gli ultimi tre giorni di Fernando Pessoa(1994年)
供述によるとペレイラは… Sostiene Pereira. Una testimonianza(1994年)
Dove va il romanzo(1995年、エッセイ)
Carlos Gumpert, Conversaciones con Antonio Tabucchi(1995年)
ダマセーノ・モンテイロの失われた首 La testa perduta di Damasceno Monteiro(1997年)
Marconi, se ben mi ricordo(1997年)
L'Automobile, la Nostalgie et l'Infini(1998年)
La gastrite di Platone(1998年)
Gli Zingari e il Rinascimento(1999年)
Ena poukamiso gemato likedes(Una camicia piena di macchie. Conversazioni di A.T. con Anteos Chrysostomidis)(1999年)
Si sta facendo sempre più tardi. Romanzo in forma di lettere(2001年)
他人まかせの自伝――あとづけの詩学 Autobiografie altrui. Poetiche a posteriori(2003年、エッセイ)
Tristano muore. Una vita(2004年)
Racconti (2005年)
L'oca al passo (2006年)
時は老いをいそぐ Il tempo invecchia in fretta (2009年、短篇集)
Viaggi e altri viaggi (2010年)
Racconti con figure (2011年)
Girare per le strade (2012年)
wikipediaより

 まだ未邦訳のものが多い。タブッキは亡くなられたが、これからも日本語に翻訳されて日本に紹介される本が出てくる楽しみがある。

#遠い水平線
#アントニオタブッキ
#須賀敦子
#白水社
#海外文学
#イタリア文学
#読書
#読書好きな人と繋がりたい
#本
#本好きな人と繋がりたい

いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。