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古寺と須賀敦子と室生犀星

気付けばホテルの部屋は暗闇に包まれ、窓の外の高層ビル群は光彩を放ちはじめていた。

冬の上海は寒暖差が激しいように感じる。
この数日あまり天候も冴えない。
どんよりとした雲が空を覆い、時には冷たい霧雨が街に立ち込めるときも増えた。

下に見えるアスファルトに所々まだ水たまりが残っていて、時々ビルのネオンや行き交う車のランプを反射させている。

少し歩かないといけないけれど、静安寺が行ける距離にある。
空海も遣唐使として訪れている寺は3世紀の三国時代に由来するほどの歴史を持つ。
しかしながら、文化大革命のときに徹底的に破壊され、寺はプラスチック工場になり、また仏殿は焼失した。 
その後、風向きが変わり、1991年にようやく再建が竣工された。それから更に20数年後の今、静安寺周辺は高級ブランド店やセレクトショップが立ち並び、小径へ入ると閑静でもある。
長い歴史の中、高層ビルに囲まれて、真言宗の重要な寺は、緩和と維持に揺らぐ情勢の中、無の中心の何かや現世を静観していたりするのだろうか。
─── 本から目を離し、薄暗く少し乾いた空気の部屋で、私はぼんやりとし、そのようなことをとりとめもなく考えていた。

私は、昭和初期に詩人、室生犀星さんの書いた本『或る少女の死まで』(1952年)に夢中になって、こんな夕暮れどきになっていたことをいまさらのように感じた。

時計を見やると既に18時を回っている。
詩人が書いた自伝のような小説を一旦閉じ、明かりを付けた。
シャワーを浴びて、いつもツイートしている須賀敦子全集の一篇を読みながら、デリバリーしてもらった夕飯に手を付ける。

今日は須賀敦子全集第三巻『時のかけらたち』の『ヴェネツィアの悲しみ』だった。以前も書いたかもしれないけれど、9月17日からどんなことがあっても毎日、私は須賀敦子全集を第一巻から一篇ずつ読んでいる。
ヴェネツィアが島であること、その当時島の北部沿岸は荒涼としていたこと、16世紀からゲット(ユダヤ人街)がその辺りにはあったことなどを知った。
華やかで朗らかそうなヴェネツィアの光と闇の境界のくっきりと橋が分け隔てているかのように僕は心の中でイメージした。

室生犀星さんと須賀敦子さんとでは時代も土地もまるで異なるのに何かが共通しているように思えた。

異国のホテルで日本人の書き残した文章を読むのは何だか不思議な心持ちだ。

上海では5日から地下鉄など公共交通機関や公園など屋外の公共の場に立ち入る際に陰性証明の提示が不要になった。
政策の変更がトップダウンの為、何もかもが速い展開で良くも悪くも変化するのだろう。
今のところは緩和されている。

今週はどうやら雨と曇りのようだ。
今日、明日はリモート・ワークとなる為、夕飯時はひとりである。
元気の良い、はつらつとした黄さんの力強い声を聴きながらの食事。
それが淋しさを紛らわせてくれていたことに気付かされる。

デリバリーしてもらった和風弁当をあらかた食べ終えるころには、須賀敦子さんを読み終えていた。
上海で和風弁当を食べながらヴェネツィアを想像するのも悪くない。

デリバリーは女の子ではなく健康そうな男だった。
女の子だったら、この記事だって、始まり方が違っただろう。

そうして、いつものように
#一日一篇須賀敦子
とハッシュタグを付けて短くまとめて数ページのエッセイの感想をツイートし、私は映画を流した。いつものウォン・カーウァイの『天使の涙』4日目。何を言っているのか相変わらずわからない。

何となく飽きて、私は広々としたベッドに寝そべり、室生犀星の続きを読むことにした。

主人公の青年と九つのふじこという女の子の交流。
ふじ子を主人公はボンタンと呼ぶ。ふじ子はお返しに主人公をボンタンと呼びやり返す。

私はいつもふじ子をボンタン、ボンタンと呼んでいた。なぜかしら、そう呼んだほうがこの少女の心持が出ているような気がしてくるからであった。
「ボンタン。お出で」
庭に出ている彼女を呼ぶと、いつもきまって、「ボンタン、なあに」
向うでもボンタンをくりかえして私を呼ぶのであった。
『或る少女の死まで』室生 犀星

古都金沢を出て、東京へとやってきた詩人は貧困を極めてもいた。

主人公は、室生犀星の有名な詩の一節のような気持ちだったのだろうか。正直、今の私の心境のような詩でもある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
小景異情―その二 室生犀星

あまり起承転結の起伏の激しさがないようでいて、詩人の恋愛詩が検閲され、問われたりと、当時の表現者たちの息苦しさから時代の裏側が垣間見れたりする。

検閲といえば、フランスへ亡命したノーベル文学賞作家、高行健の作品は、最近まで、発禁となっていた。しかし、ここ最近になって戯曲など含めていくつかまた刊行されている。
私は今回、『霊山』を連れてきている。果たして読めるのだろうか……。

話が逸れてしまった。

室生犀星の表現者としての豊かな日本語は、どこからやってきたのだろう。
決して最近流行りの抽象的な散文詩などではなく、たおやかで、しなりのある柳のような文体によって写実的な描写は匂いと湿り気、肌の温度を持っているかのようだ。
文章が無機質ではない。
文章が、短編がひとつの有機体たなっている。

彼女は明るいつやつやした目で私を見上げた。
誰でも一度は、この子のように美しい透明な瞳をしている時期があるものだ。
五つ六つころから十六、七時代までの目の美しさ、その澄みわたった透明さは、まるで、その精神のきれいさをそっくり現わしているものだ。
すこしも他からそこなわれない美だ。
内の内な生命のむき出しにされた輝きだ。  
それがだんだんに、宛然、世間の生活に染みてゆくように、すこしずつ濁ってゆき、疲れを感じるようになり、ねむれなくなってゆくのであった。
私はいまこの濁った自分のひとみの中にうつした瞳を、その瞳の清浄な光によって、いくらか洗われているような、清さを伝えて貰えるような気がした。
『或る少女の死まで』室生 犀星

詩人の書く小説のみずみずしさと柔らかさ。
そして事物への中心を掴む力と表現力に圧倒されてしまう。

私はこういう文章がとても好みだ。
ここまで、書いてようやく私は冒頭付近で書いた「室生犀星さんと須賀敦子さんとでは時代も土地もまるで異なるのに何かが共通しているように思えた。」の「何か」がわかった気がする。

須賀敦子さんの文章も、みずみずしさと柔らかさを持つ。そして事物への中心を掴む力と表現力が彼女にはある。

室生犀星さんを知ったのは、フォローさせていただいている木の子さんの投稿からだった。
それを読んだのは、この本を読むことになった日の午前のことである。

私が読もうと思い立ったのは次の木の子さんの言葉だった。

他人はどうであれ、自分がここに残すのなら人から淘汰されようと真摯に向き合いたいと考える。
コニシ木ノ子さん

私の書くことの信条のひとつに、
等身大で真摯に自分自身とポジティブにもネガティヴにも両方の側面を持つ孤独と対峙することから逃げ出さない
というのがある。

それでも弱い人間の私は、時折、等身大ではなく、大げさに書きたくなることもある。
だからこそなのだろうか、等身大以上であったり、消耗的資本主義的な書き方をしている文章にはとても敏感でもある。

室生犀星さんの文章は等身大である。
そして須賀敦子さんも。
彼らは飾ることなく、生き生きとした生そのものを捉えて描写する。そしてありったけの表現力と優しさを兼ね備えている。

同僚の黄さんと食事していて落ち着く。
出会ってまだ数週間だけれど、初めてロビーで会った瞬間から、私たちはお互いに気が合うことを理解したと思う。
彼は飾ることなく大らかではつらつとして、優しさが滲んでもいる。

木ノ子さんも優しい書き手なのだろう。
文章が優しい。
上っ面ではない優しさと、ここはとても尊敬しているのだけれど、とても文章が謙虚なのだ。

現代文学のひとつの特徴かもしれないが、素敵な言葉や極端に悲惨であったり感傷的なシーンや村上春樹作品に出てきそうな暮らしぶりや豪勢なモノ、食事がたくさん書いてあったとしても、どこかしら等身大ではない何かを感じる文章に出会うこともある。
一見すると社会に開いていそうで、中身がスカスカしていたりする感覚を覚える。

私の単身赴任中のホテル滞在というのは、それほど豪勢なホテルではなく、一般的なビジネスホテルだ。それでも、まるで村上春樹作品の世界観のように思えてくることがあり、時々、現実から離反しかけていないか心配になる。

国内外近代文学〜1980年前後までは中身がしっかりと詰まった作品が多い気がする。
ここ最近は安部公房に始まり、日本人作家ばかりを読んでいる。
安部公房はかなり社会に開いたスタンスで、個から集団へとメスで切り込んでいく。

安部公房は少し違うけれど、近代日本文学は特に、過ごした土地やそこでのひとたちへの郷愁が感じられるものが多い。

柔らかさ、謙虚さ、社会に開いたスタンス、エロスの全て詰まった小説って何があるだろうか。

オルハン・パムクを読みかけだけれど、パムク作品にそうしたものを少し期待もしている。

単身赴任は淋しさもあるけれど、本を自由に読む時間が割と作れるのは、良い点かもしれない。
それでもやはり、家族と一緒が良い。

何と言っても、今日は妻の誕生日だから。

おめでとう、Tちゃん。
今日が彼女と彼女を大事に思うひとたちにとって良い一日でありますように。
そして晴れ渡る空の下で笑顔で穏やかで健やかに過ごせますように。

いつか静安寺周辺をふたりで散歩したい。

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