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ねじの回転の独りよがりな解釈

はじめに

 サルトルは『存在と無』で、「二重の相互的受肉」の敢行が性的欲望の対象の所有へと転換あるいはすり替えられることを次のように言っている。

私は他者を、彼女自身にとっても私にとっても、彼女自身の肉体として実感させるようにするために、自分を肉体にするのであって、私の愛撫は、私の肉体が他者にとって他者を肉体として生まれさせる肉体である限りにおいて、私の肉体を私にとって生まれさせるのである。
『存在と無』第三部J.P.サルトル

性的欲望は人間の逃れられない欲望のひとつであり、種の保存のためにも重要な欲望でもある。(嗜好性は人それぞれであるとしても)

あらゆる欲望はエロティシズムに収束していくようにも思える。そして、欲望は、時として、社会的格差によるひずみによって、はじき飛ばされもする。

現代におけるエロティシズムの格差と文明批判についてはフランス人作家ウエルベックが一貫してテーマにしている。

性的欲望、あるいは生理的な欲動が叶えられない時、鏡の中の自分自身を見つめると、ジキルとハイドのような形相をしているかもしれない。
叶えられそうなとき、あるいは叶えられる瞬間はあらゆる慈悲にも包まれたような恍惚感を全身で受け取り、他者を享受し内側で自分自身をも所有する。
叶えられないと知った瞬間や叶えられなかったとき、得られるはずの恍惚感と真逆の絶望か何かしらの深いぬかるんだ沼に片足をつっこんだような、だらけた感覚に包まれるかもしれない。

何かを所有している所有したいという感覚や意識はこのようにして、欲望の延長線上に、あるいは、所有したい欲望は無意識下に──心の底、世界の深淵に──黒いイロニーのように佇んでいる。

簡易的な感想

 本投稿はやや入り組んだ内容およびヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』のネタバレや結末も含むため予め、端的に感想を述べておく。

 無邪気な子どもたちと家政婦が当時のブルジョワ階級社会のメタファーだとしたら、やってきた手紙の主は格差社会に対峙する欲求不満な一般の市民であり、階級社会の中で苦しみもがくかのようにねじれて闇の中で叶えられることのない欲望を社会にぶつけながら、社会=虚無虚構にしがみつき、きつく窓の外の虐げられし者たちを見せようと社会の首を窓へ無理やり向ける。

 「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」 『善悪の彼岸』ニーチェ
簡易的感想

ねじの回転原文

また直近に谷崎潤一郎の五感にしっとりとしみこむような美文を読んでいたため、訳者の方々のせいではなく、とにかくあらゆる日本語の小説は谷崎の美文が恋しくなってしまう。そのため、原文で読むことにした。
土屋さんの訳が好きなので土屋さんの解釈も知りたく、あとで読んで見ようと思う。

原文はグーテンベルグで公開されている。

注意:
以下はネタバレと結末を含むため、未読でネタバレが嫌な方はスルーしてください。

ねじの回転における二重の相互的受肉

英米作家ヘンリー・ジェイムズ(1843年4月15日 - 1916年2月28日)の『ねじの回転』の第3の語り手、懺悔の告白のような手紙を書いた女家庭教師は、19世紀末のヴィクトリア朝の屋敷で、まるでこの黒いイロニーによって階級社会といった悲喜こもごもな社会システムに首をへし折られたように僕は解釈した。

あらすじ

本書は三層構造になっている。

①読者への語り手の「私」
②手紙を①の「私」に語る「ダグラス」
③「ダグラス」に語る手紙の書き手の女の「私」

あるクリスマスイブに暖炉を囲み、①の私や他の人びとが②のダグラスの身の毛もよだつような話を聞き入るところから、物語は始まる。
前述の第3の語り手、懺悔の告白のような手紙を書いた女家庭教師は③である。

ダグラスの語り始める身の毛もよだつような話とは

ダグラス氏の語り始める話は、ダグラス氏の大事に鍵をかけてまで保管していた手紙の内容である。
そして、その内容を③の書き手は②のダグラス氏にしか明かしていない。

手紙の内容は主がかつて家庭教師をしていたBly家のふたりの子どもたちと家政婦の住まう屋敷でのことだ。
家庭教師を依頼してきたのは女慣れしていそうなハンサムな紳士でした。この紳士はBly一家の主人の兄弟であり、子どもたちの伯父である。
そして、③の女家庭教師はその男に一目惚れしていましたが2回しか会ったことがない。

依頼時に、絶対に面倒な報告をしてくるなといった類のことや一切合切任せるため、自分は一家に関わりたくないといった類のことを言ってもいる。

依頼主 屋敷では生活しておらず兄弟の伯父にあたる
子どもたちの両親 死亡
兄 マイルズ 10歳
妹 フローラ 8歳
家政婦 グローズ
Bly家の構成

ところで、このダグラスさん、妹がいた。
その妹の家庭教師をしてくれていたダグラス氏より十歳年上の女性が、手紙の主でもある。

ここは技巧的だなと感じさせられた。

僕にとって、本書の一捻りと感じた点は、まずこのダグラス氏の兄弟関係とBly家の構成を似せることで読み手に、ダグラス氏とマイルズを重ねさせかねない点でもあった。

If the child gives the effect another turn of the screw, what do you say to two children—?”
The Turn of the Screw 
Henry James

なぜなら、手紙で女家庭教師が語る──あるいは懺悔のような告白──過去、彼女が家庭教師をしていたBly家の子どもたちも、兄と妹、という構図なのだ。

信頼できない語り手から見えてくる「まなざし」と「欲望」

欲望の果てに二重の相互的受肉を叶えられずとも、人間というのは滑稽なことに、それをどこかで客観視するときもある。そして叶えたいと願う欲望を抱く自分自身に対して、他人の顔を見るような視線を投げかけるときもある。

この視線は先日感想を述べた谷崎潤一郎の『細雪』の冒頭の視線がよく表しているように思える。

「こいさん、頼むわ。──」
鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら
「雪子ちゃん下で何してる」
と、幸子はきいた。
細雪
谷崎潤一郎

こうして人は欲望を抱えながらもどこかで滑稽な自分を客観的に見つめ、自分自身の闇を抱えながらのらりくらりと日常をやり過ごす。

しかし、そのようにできるのは、ある程度精神状態の安定が必要でもあろう。幸子は極めて、おせっかいでもあったが、周りや自分が見れている人物でもあったように。

『ねじの回転』で、手紙の差出人である女家庭教師は、あるふたりの亡霊を目撃する。そのシチュエーションは、

窓の外から見つめる
塔の高みから睨む
池の対岸に佇む

など、かなりメタファーとして様々な解釈を促す興味深いものでもある。

屋敷の室内を個人、室外を社会とすると、窓は内と外を隔てているだけではなく、内側の世界と外側の世界を隔てている。

この際、亡霊が存在したのかどうかは問題としない。

なぜならば、③の語り手によって語られたことが全てであり、それ以上でもそれ以下でもなく、語り手は目撃し、他の者たちは目撃したかもしれないし、していないかもしれないのだから。

亡霊を通して、手紙の語り手は自己をなんとか見つめようとし、手紙を書くことでさらに自己へまなざしを向けている。

亡霊≒イマージュの像を欲望あるいは自己投影あるいは「まなざし」として捉える

窓が当時の社会階級を隔てるメタファー、池がその層の間に佇むぬかるみだとしたら、どうであろうか?
窓の外に見えるのがブルシットなブルジョワ階級の光であり、手紙の語り手の訴えたい社会そのものでもある。
窓の内側が中間層の階級であり、手紙の語り手の階級と古いしきたりを重視するブルシット階級の闇との入り混じる葛藤の世界
である。
そして、ふたりの子どもたち、マイルズとフローラはブルジョワ階級の光と闇の両方を兼ね備えた存在である。

手紙の語り手が恋焦がれた女慣れしたハンサムな社会階級の異なる男はブルジョワ階級の光でもあろう。

it was a big, ugly, antique, but convenient house, embodying a few features of a building still older, half-replaced and half-utilized, in which I had the fancy of our being almost as lost as a handful of passengers in a great drifting ship. Well, I was, strangely, at the helm!
The Turn of the Screw
Henry James

第1章で既に手紙の語り手は自分がこうした古びたしきたりの中へ飛び込み、その中で舵取りをしなければならなかったことを訴えているようでもある。

There had been a moment when I believed I recognized , faint and far , the cry of a child
The Turn of the Screw
Henry James

着任して早々に亡霊の存在を訴えている語り手だが、ここで見て取れるのは、著者が読み手の五感「耳」へと効果を促している点でもある。
さりげなく五感に訴えてくる効果を使っているのが現代文学とくに日本文学にはないものであり、やはり想像力に訴えるには五感と自然環境というもの、発達しすぎていない文明がいかに大事か思い知らされもした。

五感によって訴えているのは読み手だけではなく、語り手の五感も敏感になっているということを表してもいる。

手紙の語り手の現実とイマージュ(想像されるもの)が曖昧になってきはじめてもいる。

子どもの泣き声、扉の向こうで僅かに立ち止まる足音。
これらは語り手にとって、耳を塞ごうとしていたものにたいして、耳を「開こうと」した瞬間とも捉えられる。
つまり、前述の僕の解釈の設定だと、社会階級の境界の闇を否応なく五感を用いて見聞きしはじめた、とも解釈できる。

“Ah, then, I hope her youth and her beauty helped her!” I recollect throwing off. “He seems to like us young and pretty!”
“Oh, he did,” Mrs. Grose assented: “it was the way he liked everyone!” She had no sooner spoken indeed than she caught herself up. “I mean that’s his way—the master’s.”
I was struck. “But of whom did you speak first?”
She looked blank, but she colored. “Why, of him.”
“Of the master?”
“Of who else?”
There was so obviously no one else that the next moment I had lost my impression of her having accidentally said more than she meant;
The Turn of the Screw
Henry James

うっかり本音を漏らす家政婦グローズさんを見逃さなかった手紙の語り手だが、ここに、身分の違うものに対して「本音を言ってはならぬ」という当時の価値観や、マイルズたちの叔父である依頼主あるいは後で出てくる下男のことなのか、あるいは、マイルズが年上好みなのか、やはりマイルズ≒ダグラス氏(ダグラス氏は手紙の語り手に恋していたことをほのめかしている)など読み手の妄想を炸裂させてくれる。

僕はこのグローズさんとの会話を手紙の語り手のイマージュに強く共振する何かを与えた契機だと解釈している。

誰しも肉体的に若々しく見栄えのよいものに性的欲望とまでいかなくても恋するであろうし、その延長線上に性的欲望はあるものだ。

最初の契機を経て、手紙の語り手が恋焦がれるブルシットな光の象徴のような男を想い出していると、最初の亡霊、あるいは欲望対象の像を認識し始める。

He did stand there!—but high up, beyond the lawn and at the very top of the tower to which, on that first morning, little Flora had conducted me.
The Turn of the Screw
Henry James

この欲望対象の像は、彼女の欲望そのものと言ってしまっても良いかもしれない。

そして、その像と次の邂逅のとき、像は彼女をじっと見つめ、別の者を探していると彼女は感じる。

手紙の語り手は恋焦がれる雇い主、マイルズの伯父をマイルズに重ね始めている、と僕は解釈した。
手紙の語り手は無意識的にこの事を亡霊の視線の投げ方に写し取っていた、と解釈している。

Something, however, happened this time that had not happened before; his stare into my face, through the glass and across the room, was as deep and hard as then, but it quitted me for a moment during which I could still watch it, see it fix successively several other things. On the spot there came to me the added shock of a certitude that it was not for me he had come there. He had come for someone else.
The Turn of the Screw
Henry James

亡霊が子どもたちを探そうとしている、と思い始めたかのように手紙の語り手はここを契機に語り始めていく。

塔や窓の外に見る男の亡霊、池の対岸に見る女の亡霊。
彼らふたりの亡霊が子どもたちを脅かそうとしている、と訴え始めるのだ。

しかし、深読みして、これらが手紙の語り手の欲望と捉えると、自己の滑稽さを露呈しているようにも思えてくる。

亡霊男⇒過去に庭師をしていた下男クイント
女⇒過去にマイルズたちの家庭教師をしていた別の女教師ジェセル
ふたりはどうやら恋愛関係にもあったようだ。と、手紙の語り手は書いている。

家政婦グローズさんから、何時間にも渡って下男とマイルズが消えていた時間があった、と手紙の語り手は述べる。
これが事実であるのかは分からないが、わざわざ書いているあたり、様々な妄想を読み手に与えてくれる。

She herself had seen nothing, not the shadow of a shadow
The Turn of the Screw
Henry James

グローズさんも子どもたちも亡霊は見ていない。少なくとも手紙の語り手から、彼らが見たとは思えていないようだ。

こうして、亡霊騒動がグローズさんを巻き込んでいくのも「ねじの回転」によるひねりのひとつとも言える。

社会そのものが窓の外であり、窓の外から見つめる亡霊≒手紙の語り手の持つ無意識的まなざしは最後までつきまとい続ける。

グローズさんとフローラを他所へ行かせて、マイルズとふたりきりの時間を作るのは、マイルズに雇い主の面影を重ね合わせた結果だと解釈している。

8歳のフローラは欲望にまみれた手紙の語り手に対し、恐怖を抱いてもいたのだろう。

クイントとジェセルに男女の亡霊をなぞらえたのは、自己の攻撃的な側面とそれを受け止める悲劇的なヒロインが手紙の語り手には必要だったのかもしれない。

クイント≒手紙の語り手に対して批判的な自分自身
ジェセル≒手紙の語り手の中でのドラマ的なヒロイン

マイルズを通して見る現実

終盤23章、24章で手紙の語り手は、マイルズを通して悲痛なまでの現実との対峙を果たす。また、マイルズの発言からマイルズが亡霊を見ていないことも明らかになる。

He had really a manner of his own, and I could only try to keep up with him. “Well, do you like it?”
He stood there smiling; then at last he put into two words—“Do you?”—more discrimination than I had ever heard two words contain. Before I had time to deal with that, however, he continued as if with the sense that this was an impertinence to be softened.
The Turn of the Screw
Henry James

マイルズ≒ブルジョワ階級の光
手紙の語り手≒中流階級

であること、すなわち現実での階級社会における互いの差異をマイルズからの差別的な話ぶりから語り手は認識させられる。

燃やされたエクリチュール

また、マイルズの見てしまった手紙の内容は手紙の語り手のみぞ知る。
燃やされ、灰となり塵となってしまってはどうにもならない。読まれることのない手紙や物語は現存せず息をしないのだ。
クイントとジェセルの物語が誰かのイマージュであるように。
羽ばたけないエクリチュールと同じである。僕のとるにたらない物語と同じだ。

僕はこの手紙に文脈からではなく、デリダ的にいうならば──燃やされたことに安堵しながらも内容を見られたくなかった語り手の──手紙の存在の意識があとからやってきて、手紙の内容を想像させられた。
すなわち、差延の効果をヘンリー・ジェイムズは小説でやってのけているとも言える。
余談

これが契機となったかどうかまでは分からないが、最終章である24章で、マイルズとクイントを重ね合わせてしまったかのように、手紙の語り手はマイルズを解放へと向かわせる。

性的欲望あるいはブルシット階級社会の像としてのマイルズ

ブルシットの象徴であるマイルズは、手紙の語り手の欲望の象徴としてのクイントと同化していく。

“Peter Quint—you devil!” His face gave again, round the room, its convulsed supplication. “Where?”
They are in my ears still, his supreme surrender of the name and his tribute to my devotion. “What does he matter now, my own?—what will he ever matter? I have you,” I launched at the beast, “but he has lost you forever!” Then, for the demonstration of my work, “There, there!” I said to Miles.
The Turn of the Screw
Henry James
太字は本投稿筆者が強調

ピーター・クイント、あなたは悪魔だ

と叫ぶ10歳の美少年。
眼を見開いているのか、その眼に映るのは何なのか。
信頼できない語り手の真骨頂の場面でもある。

さまざまな解釈ができる。つまり、マイルズの瞳に何が写っていたか?

①手紙の語り手から逃れるために、クイント、といい、見えていないクイントに向かってクソ野郎と叫ぶ。
②手紙の語り手とマイルズに性的虐待をしていたかもしれないクイントを重ねて、語り手に最後の非難を浴びせる。
③クイントを語り手の瞳の中に見出し、そのクイントに向かってクソ野郎と言っている。

解釈のバリエーションは多岐に広がっていく。

今回の僕の投稿では、サルトルを受容体として、階級社会を風刺するヘンリー・ジェイムズ、という解釈を採用する。

ステップ1:欲望、あるいは社会の歪みの像としてのクイントを、社会階級は違えども、同じ属性を内に秘めるくせ者のマイルズが、ピーター・クイントの像を他者である手紙の語り手の瞳の中で見る。
それはマイルズがマイルズ自身をも見ているかもしれない。
ステップ2:ステップ1の少しあと、像≒社会風潮あるいは階級格差の歪みに対してマイルズの意識がやってきて、断末魔のように悪魔だ≒クソ野郎と叫ぶ。

ステップ1,2で彼女はこの間ずっとクイントを見ている、と明記されてもいる。マイルズの眼を見る手紙の語り手に映るものを考えると、語り手が見るマイルズの瞳の中に映るのはクイントであり、それは彼女自身かもしれない。

また、引用した最後の上記の文脈、I have youのIはイタリック体であり、強調されている。それと同時に、本投稿の冒頭で述べた、「二重の相互的受肉」の敢行が性的欲望の対象の所有として遂行もされた。と解釈している。

つまり、僕の解釈では、階級社会に対峙しようとした中流階級の手紙の語り手は、最終的に、階級社会、社会風潮、欲望といったものにねじの回転によって巻き込まれて、結局は彼女自身、ひねり潰されるがごとく、飲み込まれてしまう、ということだ。

But he had already jerked straight round, stared, glared again, and seen but the quiet day. With the stroke of the loss I was so proud of he uttered the cry of a creature hurled over an abyss, and the grasp with which I recovered him might have been that of catching him in his fall. I caught him, yes, I held him—it may be imagined with what a passion; but at the end of a minute I began to feel what it truly was that I held. We were alone with the quiet day, and his little heart, dispossessed, had stopped.
The Turn of the Screw
Henry James

マイルズの首をゆすり、ねじり上げ、くるりと回して窓の外の「ブルシットなブルジョワ階級の社会」を見せつけながら、自身の欲望を恍惚感と共に解放したのだろうか。

二項対立関係、あるいは均一化が生み出すねじれ

手紙の語り手は、初めは純真無垢な子どもたちを悪の象徴的な亡霊から守りつつ、それらに対峙しようとしたが、回転に巻き込まれたまま、現実の闇に飲み込まれ、その深淵にずぶずぶと浸かってしまったかのようでもある。
無邪気な子どもたちと純朴な家政婦が当時のブルジョワ階級社会のメタファーだとしたら、手紙の語り手は格差社会に対峙する欲求不満な一般の市民であり、階級社会の中で苦しみもがくかのようにねじれて闇の中で叶えられることのない欲望を社会にぶつけながら、社会=虚無虚構にしがみつき、きつく窓の外の虐げられし者たちを見せようと社会の首を窓へ無理やり向ける。

こうして、はじめは二項対立的なものが、結果的にどちらかに巻き込まれていく、ということが本書によって明かされていく。

これは19世紀だけのことではなく、二項対立が成り立ちやすい社会というのは、権力者にとって好都合でもある。わかりやすい例が第二次世界大戦中のナチスドイツであり、民族主義的イデオロギーを掲げた独裁者ヒットラーを生み出した。
そして、いまもそれは起こっている。
時事問題として今年2月に悪化した戦争のみならず、世界中の紛争や内紛、あるいは独裁政権や軍事政権による民族弾圧など。

もっとも信じたくないことだが、この亡霊たちより、文明が発達し、倫理も識字率も上がったはずの21世紀において、三層構造の語り手の①の書き残した時代─第一の語り手がみんなが恐れた話─よりも現代は比較にならぬほど非情で残酷な破滅的な世界になってしまっているのが実情である。
二項対立の見せかけの解消をしていくと、画一化、あるいは全体主義的な均一化、無個性で無機質な「今」そのものではないだろうか?

文明の発展は、破滅への加速でしかないのだろうか?

この一連の解釈は僕にふとニーチェの善悪の彼岸の有名な一節146を思い起こさせる。

怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ
善悪の彼岸
ニーチェ

おわりに

短い物語で数時間で読める古典だが、さまざまな解釈の余白をもち五感に訴えかけてくる本書。

皆さんは燃やされた手紙の内容、マイルズの断末魔的な最後のYouについてどう捉えていますか?

読後の解釈の幅の広さを楽しみが尽きず、飽きずに何度も読み返せる気がする。
土屋さんの訳を読むのが少し楽しみだ。

※深夜少し修正と項目を追加加筆しました。(冒頭、マイルズを通しての現実、燃やされた手紙、現代のねじれなど)

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