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『形而上学(けいじじょうがく)』という言葉の意味を理解した日

今日は体育館で部活の指導をするという機会に恵まれ、雨の中、お客さんが来ない古本屋を抜け出し、私立の学校に出かけてきました。3時間分のメニューを考え、個性が強めの子供たち飽きさせないように工夫する。傍から見ているよりは大変な仕事です。面白いですけど。

で、指導を終えて店に戻ってみても、売上はなく、お客さんも来なく、お店は閑散としています。そこで今日は暗くなってから、しっかりと考えながら本を読みました。

そんな読書の中で、初めて『形而上学』という言葉の意味を掴むことが出来ました。「なんとなくわかる」から「理解した」に変わったのです。

店主が形而上学という言葉の意味を理解した背景には、アリストテレスの『自然学』について学んでいたことがきっかけでした。この『自然学』を日本人に馴染みがある表現で説明するとなると、夏目漱石の夢十夜という小説の中に出てきた「護国寺の山門で仁王を刻んでいる運慶」が適当だと思います。

「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」

 夏目漱石『夢十夜』「第六夜」より

これはつまり、仏像は彫師の作業によってつくられるのではなく、元々木の中に存在していたという考え方です。こういった考え方が『自然学』。日本では昔からこの思考スタイルが継承されています。

しかし、古代ギリシアでは『自然学』とは違う、斬新な考え方が登場します。キリスト教による『超自然学』。これは、神の恩寵や奇蹟のような超自然的な事象のことを指します。

つまり、不思議なことがあったときに、自然の摂理に答えを求めるのが『自然学』で、自然を超えた神の思し召しであると考えるのが『超自然学』であるということです。(正確な意味は違うかもしれません)

そして、明治初期に西洋哲学が日本に輸入されたときに、その活動に尽力した人たちが、超自然的なことを『超自然学』と訳さず、なぜか『形而上学』という難解な名付けて普及させたということです。だから店主は『形而上学』という言葉が腑に落ちるまで時間がかかりました。

そして、この『形而上学』という不思議な言葉は、日本人学者の西洋文化に対する劣等感と、庶民に対する優越感が表裏一体になった独特の翻訳だったという話が本に書いてありました。

この話を本で読んで、店主は「勿体ない!」と思いました。わかりやすい言葉にすることができれば、多くの人が理解しやすいのに、自分を偉く見せるために、わざわざ難しくしたのであれば、本末転倒です。

そこで「ふ」と現代の私たちの生活のことを考えてみました。すると、わかりにくい税金の問題とか、複雑な社会保険のシステムとか、意外と難しいことが沢山あることに気がつきました。このシステムをつくった人たちが、どのような意図を持って作ったのかを少し疑ってしまいました。

反面教師ではありませんが、店主は人様にテニスを指導する立場ですが、そのような指導をしないように心がけたいと思いました。もちろん、古本屋の店主としての商いやアドバイスも同じです。


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