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ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』読んだ

いやあこれは面白かった。

原著は40年以上前、邦訳は約20年前に出ているが、まだ読んでなかったなんてもったいないことをしていた。

意識はいつ、どのように生じたかというありふれたテーマだが、大胆な仮説を立てて検証した意欲的な作品だ。

まず意識とはなんでないかから始まる。

意識は学習に必要でない。概念の習得、形成に必要ではない。意識は経験の複写ではないし、知覚されたものを貯蔵しているのではない。思考に必要でないし、理性にも必要でない。

ひらめきは突然やってくるとか、スポーツで身体の動きを意識すると当たり前の動作ができなくなるとか、日常経験から納得できる部分もあるが、言い過ぎと感じなくもない。

次に言語について。

言葉は比喩によって発達する。言語は意識ではなく、知覚器官である。
ここではアナログ(類似物)という概念が大事だ。

be動詞ですら、成長するという意味の印欧祖語bʰuH-を語源としている。つまり存在するという基本的な意味の動詞すらかつてはなくて、具体的極まりない単語の比喩として誕生したのである。

こういうことを知ると普遍が先にあるとか、イデアが実在するとかもはや信じがたいよね。

比喩によって意識は空間化される、実際の経験をアナログ化して編集する。

これにより一歩下がって自分を見ることができる。さらには経験を物語化することができるし、その物語を都合の良いように整合化することもできる

意識は比喩からできた、世界のモデルなのだ。

言語は意識の成り立ちを追うのに有用だ。

むかしイーリアスを読んだとき、登場人物に内面がないと感じた。神々に誘導されるままに行動しているようにみえる。その神々もあまり人間と区別がつかない。
しかしオデュッセイアになると人間の葛藤、狡猾さがみられるようになる。

本書では言葉からそのことを読み解く。

thumos動き、phrenes横隔膜、noos(のちにnous)見る、psyche呼吸、kradie震え・心臓 、etor胃腸といった、今では心理と関連する重要な言葉も、イーリアスでは身体的な意味しかもっていない。ところがオデュッセイアになると、これらの単語が心理的な意味も担うようになっている。

また、身体全体をあらわす単語がない、somaがそのような意味で使われるようになったのは紀元前5世紀以降で、イーリアスでは使い物にならなくなった手足、死体といった意味だ。
紀元前6世紀以降は、逆にsomaはpsycheの反対語として、肉体という意味を持つようになる。心身二元論の始まりである。

ここで二分心という概念が導入される。神の声を聞く脳と、人間の脳だ。おおむね右脳と左脳、または直感と言語による分析に相当するといっていい。

イーリアスの英雄たちには主観がなく、内観するような心の空間がなかった。神の声を聞いて、そのまま行動するからだ。

実際その次代には、線文字Bの解読などから、厳格な神政政治がおこなわれていたことがわかっている。つまり右脳では神々の声が本当に聞こえていた。


続いてその政治について。

意思疎通システムが群れの大きさを規定する。言葉が重要だ。初めに言葉があった、、、である。そして神のそばに言葉があった、という文言は意味深である。

言葉は初めに、たんなる偶然的呼び声、叫び声から、意図のある作為的呼び声へと進化した。

さらに命令を伝えられるように発達なる。また、本能的でない行動を持続するために内なる声が聞こえるようになる

やがて農業が始まり、大集団での定住が可能になる。前9000年紀のエイナンの遺跡(ナトゥーフ文化)にその証拠がみられる。

この時期の集落には、中央に位置する神殿、死者を生きているかのように埋葬する風習、大小さまざまな偶像といった特徴が共通してみられる。これが神政政治の証拠とみられている。

前3000年頃には文字が登場、メソポタミア、エジプトなどについてより詳しくできる。集団が大きく複雑になり、文字が必要になったと考えられる。

複雑化にともないエジプトでは神政政治は不安定になったが、メソポタミアでは文書や法を運用することで安定した。ハムラビのような、神の代理人たる王がいたことで柔軟性をもたせることができた。ハムラビ法典は二分心の社会では神の声明であり、現在のような警察力によって強制される法ではなかった

二分心の時代には、主観とか個人的野心といったものはなく、神々の声によって統治されていたのである。

前2000年紀になると、戦争、災害、民族移動により、二分心による統治は難しくなる

異なる神政政治の文化が出会ったとき、しばしば敵対関係に陥った。
また神の存在が文書化されたことで、強制的な即座の服従を求める幻聴ではなく、制御可能な存在となる。つまり神々の権威が弱まった。

友好関係となった場合には交易が始まり、商人などは異なる神々に支配される人々と交わって、二分心を弱体化させたであろう。

地中海の東側ではテラ島火山の大噴火により多くの人々がいきなり難民となった。このような大災害は大規模な民族移動を引き起こし、戦争の誘因になったと考えられる。

二分心で統制されていた時代では考えられないような残虐行為が横行する。東地中海の歴史では、暗黒時代、ドーリア人の侵入、海の民の侵入などとして記憶されている。

この混乱の時代に意識の始まりがあった。意識をもつことで、内側と外側で異なった人間でいられる。つまり他者を欺くことが可能になる。この能力が生き延びるために必要になった。

令和の価値観をもっているように見せかけて、中身は昭和なんて行動は、イーリアスの時代には不可能だったのだ。

このプロセスは緩やかに進んだので、イーリアスの時代のエーゲ海にはまだ二分心が十分に残っていた。しかしオデュッセイアを読むと、イーリアスの英雄たちと異なり、内面を持っていることがわかる。
また旧約聖書のうち、最も古い時代に書かれたもの(アモス書)と最新のもの(コレヒトの言葉)を比較しても同様の変化を見て取れる。
またメソポタミアの行政文書を経時的に比較すると、前7世紀ころにはほぼ現代人と変わらない主観と時間感覚を持つようになっていることがわかる。

時間感覚により物語化が可能になる。これによりより系統的で詳細な行政文書を揃えることが可能になった。また叙事詩や歴史が誕生した。

二分心が弱まって神の声が聞こえなくなると、視覚的ななにかに頼りたくなる。前1000年紀ころになると天使、悪魔、半人半獣、キメラなどの壁画、彫刻が大量に現れるのはそのためだろうか。

神の声が聞こえなくなると、神は地上から天に居場所を変える。だから神のメッセンジャーたる天使には翼が生えている。あるいはバベルの塔のような高いジグラットが必要になる。

また聞こえなくなった神の声を埋め合わせるべく、占いとか巫女とか神託とか神憑りとか預言者とかいったものが発明された。偶像崇拝の突然かつ大規模な復活もこの類のものと考えられる。

ピュタゴラスやプラトンの時代には二分心はかなり弱まり、統合された主観が完成しつつあったと思われる。

この時代のギリシャでは、神憑りを促すために詩や音楽や踊りが発達した。統合された意識の信者であったプラトンが『国家』で詩人を追い出せといったのはこういう事情からなのかもしれない。

クサカベクレスの自然vs主観の構図もこの文脈で捉えられるかもしれない。

現代にも、イタコのような、二分心の名残りはある。典型例はその名のとおり、統合失調症であろう。彼らが聞く幻聴は、二分心の時代の神の声そのものかもしれない。ちなみにイーリアスには精神異常という観念はない。

もしかしたら、二分心の崩壊つまり意識が統合されていくプロセスは、古代から現代まで緩やかに進行中と捉えるべきかもしれない。そう捉えると中世の人々の行い、考えも理解しやすくなる気がする。
一部の人々、例えばジャンヌ・ダルクのような人は中世でもはっきりと神の声を聞いていたかもしれない。

イタコや統合失調症でなくとも、右脳的すぎるというか、昆虫みたいな反応をするサピエンスはしばしば見受けられる。神的なサムシングが聞こえているのかもしれない。


まあこういう感じだった。

ちなみに本書は、安川新一郎さんの『BRAIN WORKOUT』で知った。

この本では『神々の沈黙』だけでなく、類書がいろいろ紹介されている。ちゃんとした本をたくさん読んだ上で書かれた名著、意識高い系の最高峰といっても過言ではない。一読推奨である。



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