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リチャード・ルーベンスタイン『中世の覚醒』はすぐれた哲学入門書であり歴史書だ

一部で絶賛されている『中世の覚醒』を読んだのだ。非常に面白かった。

原題はアリストテレスの子どもたち、みたいな感じだ。

レコンキスタの開始とともにトレドやシチリアにて、西洋人はアリストテレスを再発見する。そしてアリストテレスがいかに受容されていったかの物語であり、中世哲学の入門書として最適である。

歴史的背景を抜きにして神学論争だけ紹介されても困るのだが、本書はそのあたりも含めて解説されているのがいい。

歴史的背景としては、ヨーロッパに新たな自信が芽生えつつあった時代であったことが重要である。

それまで宇宙は不可解でおのれの本性は手に負えないと思いこんでいた人々や、生き延びるのに精一杯で自然や社会を支配することなど考えもしなかった人々が、みずからを合理的な存在と──そして、自然や社会を征服する能力を秘めた存在と──認識するに至ったときに、「再発見される」運命だったのだろう。前にも指摘したように、アリストテレスとギリシアの帝国主義との結びつきは、偶然の所産ではなかった。

中世の始まり告げた聖アウグスティヌスは新プラトン主義に色濃く影響を受けていた。
不安と渇望が渦巻く時代はプラトンが重視される。世界は本来の姿とはかけ離れており、どこかにあるべき姿があると思いたくなる。地上の生活は耐え忍ぶべきもので、現世の彼方に楽園があるはずだと。
この世に人間の楽園を作ろうとする機運はなかなか生まれず、700年以上にわたりアウグスティヌスが西欧の価値観を規定し続けた。

ギリシャ哲学のイスラーム世界での受容

西ローマ帝国崩壊により東方ギリシャ世界と西方ラテン世界が断絶し、西方の知識人はギリシャ語が読めなくなる、、、そうした危機感から、ボエティウスはアリストテレスをラテン語に翻訳し註解も書いたが、長らく忘却されるのであった。

東方世界でも、アリウス派、ネストリウス派のようなキリストの人性を強調するような学派は、ユダヤ教などとともにまとめて異端とされてしまった。神にして人であるキリストを素直に崇拝したい平信徒にとっても、理屈っぽいギリシャ哲学ふうの宗派は支持できないものだった。
そうして東方世界ではプラトンやアリストテレスは読みつがれたが、ひたすら訓詁学に徹するばかりで前進しなかったのであった。529年アカデメイアが閉鎖されるころには、意欲的な思想家たちはペルシャやメソポタミアに逃れていたのであった。

ネストリウス派は特に言語に堪能であったから、シリア語、ペルシャ語、アラビア語に翻訳した。欧州ではたんに保存されるか無視されるだけだった哲学、神学、科学は、中東では積極的に註解が施され、現実の問題に応用された
別のアラブ勢力はアンティオキア、アレクサンドリアに進出し、シリア語やコプト語に訳されたギリシャ哲学書を手に入れた。

こうしてアラブ人やペルシャ人はファルサルファと称される独自の哲学を誕生させ、イスラームに栄光をもたらしたのであった。

イスラーム世界における弾圧と西洋による再発見

しかしアヴィセンナの時代になると、やはりアリストテレスと一神教は相性が悪いということが明らかになり、イスラーム世界では抑圧されるようになる。

アヴィセンナらアリストテレスの註解者たちがイスラーム世界で抑圧されるようになったころ、トレドではドミンゴ・グンディサルヴォ、マイケル・スコットらがそれらをラテン語に翻訳していた。
アラブ圏の註解者たちは、アリストテレスの思想を時代にあわせて修正したりまでしていた。偉大な「哲学者」であっても無謬ではないとみなされていたことは、翻訳者たちを大いに刺激した。

彼らもまた翻訳に註解を施していくが、やがてアリストテレスの思考法とキリスト教の教義がかなり矛盾するということを痛感する。だが異教徒の誤りとして放棄するには、アリストテレスはあまりにも魅力的だった。
現世は欠落の結果ではないし、神にのみ依存する改変不可能な世界ではないのだ。

とりあえず翻訳者たちはイスラーム世界でそうされたようにアリストテレスを一神教に合うように修正した。四元素説も形相も、なにかしら霊的なものと結びつけるのは不可能ではない。
いわば虚像を作り上げたのだが、これは正統派からの弾圧をいったん回避し、アリストテレスの思想が広まる時間を稼いだといえる。

とはいえアリストテレス的な自然学の世界観では、神が介入する余地がないのは明白であり、原理主義的なイスラーム勢力の台頭ともに、アヴィセンナは追放され、アヴェロイスやマイモニデスは隠遁を余儀なくされる。こうしてイスラーム世界は文明において西欧に置いていかれるのであった。

ここに著者のいう逆説がある。イスラーム世界の卓越した哲学者は世俗の職業についていたため、思索の自由があったのに(あるいはそれゆえに)弾圧された
いっぽう西洋の思想家は同時に聖職者でもあった。異端の思想を口にすれば処刑されかねない立場であったにもかかわらず、進歩的思想の擁護者になれたのである。

世俗の職業人であれば中枢から遠ざければすむが、西ローマ帝国崩壊後の支配体制そのものであったカトリック教会の内部に急進的思想が巣食ったならば、その影響は計り知れないのである。

アベラール登場

12世紀初頭から思索する喜びが欧州で溢れ出すようになる。その口火を切ったのは聖アンセルムスによる神の存在証明だ。その論理は稚拙かもしれないが、神そのものが合理的分析の対象たりうるということを示唆した

そのアンセルムスを舌鋒鋭く批判したのがアベラールだ。さらにパリで師事したシャンポーのギヨームも批判し、いわゆる普遍論争へと発展する。

実在論は、新プラトン主義者とアウグスティヌスが発展させた正統的な見解であり、普遍や類が先にあって、人は個物を認識しうるというもの。「トップダウン」の理論である。
一方の唯名論はロスケリヌス、アベラールに代表される。個物を認識した後、その類似性を表現する概念や言葉を創出する。アベラールはアリストテレスの著作をまだラテン語で読めていなかったが、ほぼ同じ結論に達している。

それは時代背景が密接に関連している。

11世紀になると教皇権の増大、気候条件の好転、移住と侵略の落ち着き、商工業の活発化といった時代であった。
知識を渇望する若者たちは大学へ進み。教会は徒手空拳の若者に栄達の機会を提供していた。
宗教的情熱もまた盛り上げっており、イエスとマリアに対する熱烈な崇拝、自発的な教会浄化運動、十字軍といった事象がその現れである。
さらには理性によって新たな信仰の境地に到達したいという欲求も高まり、社会の変化にあわせて聖書を解釈しなおすことが切実に求められていた。

さらにはアベラールとエロイーズの情事にみられるような、個人としてありたいという欲求も芽生えつつあった。

中世以前は、人々は一つの類のメンバーとみなすよう教えられていたし、そうみなしていた。そうでなければアダムとイブの原罪を自分ごととしてとらえられない。
あるいは農民とか聖職者とか階層の一員として考える意識が強かった。
しかし経済の発展とともに、人の移住が活発になると、階層の意識は薄れ、個人という意識が芽生える

宇宙や自然にたいする関心が高まると、万物の創造主としての神という観念を維持するのが困難だと学者たちが気づき始めた。
あるいは一なる神が三つの位格を持つのは意味不明であると気づき始めた。アベラールはどうにかして説明しようとしたが、サベリウス主義者とかアリウス派とか厳しく批判され、寂しい余生を送ることになる。

とはいえアベラールの時代の欧州はアリストテレスの膨大な著作を消化している最中で、批判的・独創的に思索するゆとりはなかった。13世紀になってようやく伝統的な教義に挑戦できる土壌が整うのであった。

中世ヨーロッパの異端

アベラールを打ち負かしたクレルヴォーのベルナール(ベルナルトゥス)はグレゴリウス改革主義者であり、聖職者の腐敗を厳しく糾弾していた。
聖職者が正しい専門知識を身につければ悪しき慣行を払拭できると考えたが、地域の聖職者はすでに財産や権力を手放せなくなっていた。これをみた平信徒は欲求不満を募らせ、反教権主義的運動に巻き込まれていくのであった。

放浪の説教師アンリ、リヨンのワルド派、アッシジのフランチェスコ、ブレシアのアルノルド、カタリ派などが人気を博したのにはそうした背景があったと考えられる。

正統派は、異端との論争で言い負かされそうになると、神の領域と科学の領域を分離することで対応した。しかし理性や経験から得られる即物的知見は正しいが、信仰と理性に矛盾があるときは、全能の神は自然法則に逆らうこともできる、ということにした。

しかしときに自然の領域と超自然の領域のどちらに分類すべきかわからないこともあった。カタリ派が、神が全能であれば悪など存在させないはずだし、全能で悪を存在させているなら善性を疑うほかなくなると主張したとき、これに反論するのは簡単ではなかった。

インノケンティウス三世は断固たる方針をとり、カタリ派を武力で絶滅させた。ユダヤ教徒には特別な服装を強要した。
その一方でフランチェスコなどの民衆主体の福音伝道集団の多くを、カトリック教会組織に組み入れた。

大学におけるアリストテレスの浸透

しかし当時誕生したばかりの大学には自由な気風が満ち溢れ、アリストテレスの著作群を学生たちは貪るようにして読んでいた。よってパリ大学ではアリストテレスの自然学や形而上学を講義することが禁じられる(論理学はOK)。

だがオックスフォード、ケンブリッジ、パドウァ、トゥールーズなどの諸大学ではアリストテレスは禁じられておらず、あるいはパリで禁じられているアリストテレスの自然学を学ぶことができると宣伝する大学まであり、あまり意味がなかった模様。

結局のところ諸学の親たるパリ大学が、それら新興大学に遅れを取ることは許されず、アリストテレスの禁令は空文化いくのだった。そもそも異教徒と戦うための理論武装としてアリストテレスを必要としたのは正統派の聖職者でもあった。

その異端との闘争の知的突撃部隊たるドミニコ会はパリ大学に侵入し、アリストテレスという名の知的棍棒を入手しようとしたのであった。
経済的に豊かでありつつ超俗的なフランシスコ会は光を神の属性とみなし、光学に異常な関心を示したという。

神学とアリストテレスの調停

もちろん彼らは正統派の神学と矛盾しないように「哲学者」の体系を取り込む必要があった
例えばオーヴェルニュのギヨームは、悪は存在の形態ではなく、存在の不在または欠如と考えた。つまり悪とか罪とかいったものは神の所産ではなく、人間が神や自然が企図したものを正しく運用しそこなった結果であるとした。

ギヨームのこの発想は、人間は正しく行動すれば善をなすことができるということでもあり、人間はとことん腐敗しているから神の御業によらなければ欲を制御できないとしたアウグスティヌスから逸脱していた。

また不動の動者たる神は従来に比べるとずいぶん受動的であり、また汎神論まであと一歩であり、神の存在をも否定しかねない。

1242年ドイツ人ドミニコ会士の大アルベルトゥスがパリ大学神学部教授に就任、根っからの反異端派であったが、アリストテレスに深い関心を持っており、膨大な註解書と神学論文を著した。

なにしろ大アルベルトゥスは経験論的な自然哲学者として現代まで名前を轟かせているのだから、アリストテレスの自然学にドはまりしたのは驚くべきことではない。しかしドミニコ会士としては前例のないことだった。
彼は第一原因すなわち神が、自然が自律的に(第二原因として)機能するよう想像したという二階建ての論理を組み立てることで、伝統的な教義との矛盾を最小限にしようとした。

この理屈はトマス・アクィナスらドミニコ会士が発展させていくが、これは創造者を自然の宇宙から疎外してしまう危険性をはらんでおり、大アルベルトゥスの最大のライバルであったロジャー・ベーコンにとことん突っ込まれることになる。

ベーコンは大アルベルトゥスとほぼ同じころにオックスフォードからパリにやってきた。彼はフランシスコ会士であったから光学に大変関心を持っており、また論敵アルベルトゥス同様に数学の重要性を強調した。

実験や経験を重視したベーコンではあったが、それでもなお超自然的で、神秘主義的な発想をしており、ドミニコ会士から時代遅れとみなされることもあった。ベーコンは科学と信仰を分離してはならないと主張していた。

しかし両陣営ともキリスト教の根本教義に疑問をもつことはなかったし、それでいて科学的探求が宗教的信条に反するとの見解も持っていなかった。また信仰と理性が対立した場合は、信仰が勝つと信じていた。

結局のところ宗教的な探索方法と、科学的な探索方法との棲み分けをいかに適切に設定するかが問題だった。

トマス・アクィナスは、アリストテレスの自然観は理にかなっており、質料を霊化したり、自然の原因に超自然的要素を付加すべきでないと主張した。アリストテレスが考え及ばなかった点は、あらゆる被造物はその原因にしたがって運動・変化するが、その傾向もろとも全存在を神に負っているという事実を認識できなかったことなのだ。神は永遠に幾何学するのだ。

人間は、無からの宇宙の創造、三位一体、人間救済におけるキリストの役割の3つを除いて、理性と経験から神学上の教義を論理的に導出できる。現世で道徳的な生活を送るために知るべきことを会得できる。

ブラバンのシゲルスら急進的なアリストテレス主義者たちは、理性によって導かれた知識と、キリスト教の教義が矛盾していた場合に、両方が正しいこともありうるとした。いわゆる二重真理説だが、矛盾する場合は信仰が優るとしたトマスよりさらに進歩的だった。
さらに霊魂の不滅性も否定して、知性は個人ではなく集団に属するがゆえに死後も存続するという知性単一説も唱えた。

トマスはシゲルスら急進派を強く批判したが、パリ司教タンピエら高位聖職者からすれば、トマスはアリストテレス主義に寛容であったから、矛先を向けられることになる。これを著者は冷戦時代に共産党シンパと非難された西側のリベラリストになぞらえている。

そういうわけでトマスもまとめて断罪されたが、速やかに名誉が回復されたのは知られているとおりである。さらにはシゲルスらの流れをくむ急進派の思潮も盛り返し、パドゥアのマルシリウスとジャンダンのジャンによる『平和の擁護者』が有名である。

ここで興味深いのはアリストテレス的な自然学を否定したことで逆に経験科学の発展を促したことである。アリストテレス的な方法論をもってアリストテレスを批判し、乗り越えていったというべきか。

14世紀になるとフィリップ端麗王のような強力な王権が誕生し、貴族らは政略結婚や十字軍などにより結束を強めてきた。教皇ボニファティウス8世は彼らに精一杯対抗したが無力だった。

知識への欲望が肉欲のごとく高まっていた時代になると、いかにトマスが巧妙にその欲望と信仰を調和させていたかドミニコ会は知ることになる。

だがフランシスコ会にとってトミズムは信仰を犠牲にして理性に栄光を与えたもので許容しがたかった
ところがフランシスコ会からドゥンス・スコトゥスやウイリアム・オッカムらのさらに過激な思想が登場するのであった。

スコトゥスとオッカム

スコトゥスによれば、トマスは人間の理性を信用し過ぎであった。人間は経験や感覚から自然についての知見を得ることはできても、それは仮の姿であって鏡を覗き込んでいるにすぎない。神についての知識は信仰をつうじてのみ獲得できる。
また全能の神は思いのままに行動できるのであって、自然の法則にいささかの制約も受けない。

スコトゥスより20歳ほど年少のフランシスコ会士ウイリアム・オッカムはさらに過激であった。トマスら古い進学者たちがむやみに形而上学的実体を仮定するのが我慢ならなかった。事物を極力単純化しようとする傾向は「オッカムの剃刀」と呼ばれた。

科学の道では人間の理性が探求に役立つが、神が人間に求めることを知るのには役に立たない。それは聖書や協会によって掲示された教義をつうじてのみ知りうる。

オッカムは、トマスのようにこの二つの領域を混同することをよしとせず、シンプルに別々に探求するのがよいとした。これにより神の領域から神秘性を奪うことなく、科学を探求できるのである。

人間ごときに神の意志を知りうるはずがないという思想は、いっけん伝統的な教義と親和的に思われるが、実際のところ科学的な発見を神学的に解釈しなければならないというプレッシャーから解放され、安心して新しい知識や技術にアプローチできるようになった。結果的に教会の権威は凋落していくのであった。

オッカムはさらに剃刀を振り回し、神についてあれこれ類推する(アナロギア)ことは認めず、聖書と神秘体験以外からは神については知り得ないと主張した。人間が理性をつうじては神をまったく理解できななら、結局のところ教会の仕事は祈祷と神学的思弁と秘跡の執行だけになってしまう、、、

そういうわけでトマス・アクィナスが列聖された年に、オッカムは異端の審理を受けるためにアヴィニョン教皇庁に召喚され、4年後に有罪とされるのであった。
そして教皇権力など歯牙にもかけないバイエルン大公ルードヴィッヒのもとへ逃亡した。

アリストテレス主義の終焉

これ以降、都市人口の増加、新たな発明、大航海時代、宗教改革と時代は進展し、それについていけず偏狭な教条主義に陥ったスコラ学は嘲笑の対象となっていく。

ルター、フランシス・ベイコン、ホッブズらはアリストテレスを毛嫌いした。ギリシャやイスラームなどの異世界からもたらされたものを礎にヨーロッパが発展したとは認めたくなかったのだろう。
中世が暗黒時代という偏見はこうして作られたのであった。

以後、時代が降るにしたが、理性や科学がその領域を拡大し、信仰や宗教は未来のいつかに幕を閉じる、という観念が強くなっている。

しかし本当にそうだろうかと著者は問う。信仰をめぐって世界各地で今も紛争がおこっているのではないか。
あるいは現代の科学は、かつてスコラ学がそうなったように極端に視野が狭くなっていないか。(コロナ騒動でスコラ学以上の視野狭窄に陥った「科学」をたくさん目にしましたね)

現代も相変わらず信仰と信仰の対立、あるいは信仰と理性という名の「信仰」の対立がみられる。あるいは信仰や理性を権勢拡大の道具にする人々もいる。

このような時代だからこそ、中世のアリストテレス主義者たちが試みたように、信仰と理性を調停させようと提案されるのであった。

著者は哲学者ではなく紛争解決の専門家らしい。





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