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弘法、筆を選ばず感出しちゃった。

 弘法、筆を選ばずって言葉がある。書の達人であった弘法はどんな筆でも素晴らしい書を描いたという言葉であり、真の達人となれば道具はどんなものでもいいのだ、みたいな話としてよく使われている。
 先日、友人から「両目さん、写真うまいですよね。機材は何を使ってるんですか?」と聞かれた時、私は「iPhone」って弘法、筆を選んでないよの感じで言ってしまった。
 めっちゃいきってしまった。
 数日経っても無駄なイキりだったと思って後悔している。
 素直に「ありがとう〜。最近はiPhoneだよ〜」って可愛げのある感じでいえばよかったのに「iPhone」となぜ弘法、筆選んでない感じで言ってしまったのか。
 やはり、弘法、筆選んでない感じはかっこいいのだ。
 高い機材に頼らずにかっけえ写真を撮ってます感を出したかったのだ。
 めちゃくちゃ小さな自尊心だ。
 小さな自尊心。
 こんなもののために、私はイキってしまった。


 私は彼女がいないまま年齢を重ねてしまったのだけども、たまにめちゃくちゃ思うのが自分はもしかしたら浮気山ほどしちゃうタイプなのではないかということだ。
 これまで彼女がいなかったので自分は「真っ当な人間」だと思い込んでいたけども、弘法、筆を選んでない感じを出そうとする、つまりは小さな自尊心を満たそうとするやつだとすれば、彼女ができても、その幸せだとか当たり前を感謝するよりも小さな自尊心を満たそうとして、浮気山ほどに走ってしまうのではないか。
 自分への不信感がめちゃくちゃに強くなってしまった。ちなみに「浮気山ほど」は陣内智則が浮気を責められたときに「浮気山ほどやってたんや!」ってフレーズから来ています。面白いフレーズですね。浮気山ほどするのはよくないと思いつつ、面白いフレーズだとは思う。
 だから私は浮気山ほどするタイプなのだと思って生きていくのがいいのだと思う。現実には彼女がいないまま30代に突入しているのだとしても「私はもしかしたら浮気山ほどしていたのかもしれない。自分が思っているほどまともな人間ではないのかもしれない」と思うのがいいのかもしれない。
 あったかもしれない可能性。オルタナティブな私は小さな自尊心を満たそうとめちゃくちゃなことをしていたかもしれないのだ。怖い。それはめちゃくちゃに怖い。
 
 怖いといえば、もしデスゲーム的な極限状況に追い込まれた時に、弘法、筆を選ばず的な振る舞いをしようとする私は、絶対に主人公的な理性を働かせて生き残るタイプではないと思う。
 せいぜい、冒頭で見せしめに殺されるやつか、みんなが食べるご飯に毒を入れるやつが関の山だ。
 弘法、筆を選ばず的な振る舞いをするやつだ。どうせ碌でもないことをする。そして碌でもない死に方をするのだ。
 そう思うと、デスゲームの主人公は小さなイキりなんてしないのだ。藤原竜也は小さなイキりをしないだろう。するとしてもでかいイキりだ。真っ当な生き方、もしくはデカいイキりをする者がデスゲームでは生きることができる。
 つまり「iPhone」って小さくイキった私はすでに死が確定したのだ。
 30数年、それは長くも短い人生であった。
 私は、死の間際なにを思うのだろう。
 もっとああ生きればよかった。あんなことをすればよかった。
 いやもっと大事なことを忘れている。
 「両目さん、写真うまいですね。なんの機材を使ってるんですか」
 その質問を私は恥ずかしそうに答えるべきだったのだ。
 私はうつむきがちに「ありがとう。でもiPhoneで撮ってるねん」っていうべきだったのだ。
 その瞬間、人生は別のルートに入っただろう。
 オルタナティブな可能性が広がっていただろう。
 世界がきらめいて見えただろう。
 浮気を一切しない私の姿が。
 デスゲームで果敢に頑張る私の姿が。
 でも、それらは全て泡沫で、私は額に打ち込まれる銃弾で絶命する。
 全ては小さくイキってしまったからで、小さくイキるのは死に値することだというのことにやっとのことに私は気がついて、弘法もやっぱイキってたんじゃないかなって思いながら、額からはどくどくと血が溢れ出て、私の体は急激に冷たくなる。

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