神沢・アイルラ討論会「古文漢文は必修にするべきか。」

以下は古文漢文について必修派神沢と必修否定派アイルラ氏の一ヶ月に及ぶ討論纏めたものです。

参考文献


『古文不要論』不要論|教師しんどい @DDsk6tA5xfYUcMh #note https://note.com/sensei_toha/n/n833b05125190
雑感 古文不要論について。|大溝しめじ(国語教師) @mrshmjmshrm #note https://note.com/mrccb/n/n2e493bd0b935
ひろゆき氏の古文不要論は正しくない。そして正しい。結論は最初から出ている議論。|Keidai_shouron #note https://note.com/keidai_shouron/n/neb3f99033896
古典不要論について、現役高校生が思うこと|こふる @ariwara_kohuru #note https://note.com/nagiko_too/n/n107dcd6d42f7

討論内容

以下討論内容です。主にAMEBA newsと教師しんどいさんの記事の内容に触れています。

神沢
古典漢文不要論の大きな原因は試験になるかどうかではないか。ひろゆき氏のように効率主義になり経済・経営、法律など生きるに必要なものを優先して教えるべきというのはわかる。しかし、それらも試験科目になれば本質的なことは勉強しなくなるのが予想できる(社会科目では以上のことを学んでいるはずが実質は知らない人が大半である)。必要なことだけをやる意味が私にはわからない。

あと、古典内容を理解するのであれば現代文で書かれた漫画を読めばいいというのであれば英語もそれで事足りる。そもそも英語も本来的に将来に使う人は限られている。英語を日本語に訳したり、古典を日本語で訳す中で、ニュアンスまでは理解できない。原典でないといけない理由がそこにある。

一方、理解のために訳語を通すことも、理解の助けにはなる。このとき必要な基礎となる古文単語、英単語を覚えるという作業が待っているが、このような本質的な学習の前に些末なスキルを習得する必要があるということを教わる機会としても古文漢文学習を必修とし『てもいい』のではないか。古文漢文でなく、そうしたことを直に学べる機会が他にあるのだろうか。

また母語のルーツを知る機会にもなるので、ついでという意味で古文漢文学習が必修であってもよいのではないか。また、古文漢文学習によって、時代により言語が変化することを肌感覚で理解できる。

社会に出て必要なことを勉強するという目的だけを重要視するのであれば数学も物理も教科として全く必要ない。愛の話、家族の話、セックスの話を取り入れた方がよいのではないか。

アイルラ
ひろゆき氏の発言にあるように、試験になることが問題なのではない。必修の必要性を問うべき。教養として古典を学ぶ意義はあると思うが、優先順位が高いと思う理由がはっきりしない。

英語を使う人ははるかに多い。古文は教師や専門家くらいしか職業として使う人はいないが、英語を職業で使う人は一定多数いる。教養という面でいえば英語を理解することで世界中の情報に触れられる。

また、古文漢文「でもいい」のであり、優先順位は低い。だからひろゆき氏が提案するように道徳のような授業で触れる程度でよい。

神沢氏が大学レベルの数学物理の話をしているならば、全く必要ない。しかし高校レベルでいえば、数学は今後文系でも必要になるだろうし、高校レベルの物理は理系に進むなら多くの分野で前提知識として必要。これらを学んで将来役に立てる人の数は圧倒的に古典より多いので、優先順位として古文はやはり下。

愛の話、家族の話、セックスの話は道徳や保健で既にある。学生時代に真面目に考えない人が多く印象が薄いだけ。


神沢
文系でも高校数学がいるとはいえど経済にいく人に二次関数はいらない。物理の力学を知らなくても、てこの原理だけ知っておけば生きていける。英語を使う人がはるかに多いといっても多くて日本人の1/10ぐらいでは?すると9/10に含まれる人は必要のない英語を勉強することになると思うがどうか。さらに世界中の情報に触れられるような英語教育ができているかといえば、現代の英語教育に限って言えば日本語と英語を訳し合うことで精一杯でそこに重点が置かれているとは思わないが。
やはりセックス(や性愛について、付き合うことについて、性犯罪予防について)や家族について、さらにパソコンの話を必要主義にたつならばすべきでは。

アイルラ
まず神沢氏が古文を習う意義を論じるのではなくその他の科目の意味のなさを説くことで反論しているということは、古文の意義は薄いということになるのでは。

公教育とは現在の社会から考えるのではなく、将来社会がどう変化するのかを見据えて考えるべき。今の文系は経済学部くらいしか数学を使わないのかもしれないが、文系でさえプログラミングをする時代に変わりつつある。また、国家としても理工系重視の風潮になりつつある。

力学を知らなくても生きてけるとはいっても、公教育の目的は
①国力の基礎を養う
②国民を豊かに生きられるようにする
だと思うから、学術的な意義だけでなく、可能な限り多くの産業的な応用がきく科目を教えるべき。

英語に関しては、10%が役に立てる科目を不要と論ずるとこにむしろ驚きである。現在の社会を成り立たせるために1/10の人が英語を使用しなければならないのに、なぜ不要なのか。英語を訳すので精一杯という議論は教育法の問題であって、科目の優先度の話ではない。

セックスや家族についての話は義務教育で既に行っている。これらは学校教育のない時代でも自然と身に付けられるものであり、必ずしも公教育で教えなければならないものではない。それでも現在義務教育で教えているのは、そのようなことが学べない家庭環境の子供に対するセーフティネットとしてである。パソコンは我々の時代にはなかったが、既にプログラミングが必修化している。

神沢
まず、古文の意義が薄いわけじゃなく、科目として私としては古文「でなくてもいい」が古文でこれだけ科目として充実してるしいいじゃないか、ということ。必要主義で教育を論じるなら科目という概念にとらわれない方がいい。生まれた時点で職業を決めて、その職業に必要のあることのみを教えればいい。現代の義務教育がそれを目的としていないのは受けた我々がしっかりわかっているはず。

プログラミングのための数学といってるが、必要主義に立つならば別に二次関数や方程式を解く作業も不要。コピペする能力や実際の言語を学ぶべき。

英語が不要といっているのは必要主義になったとすれば、の話。必要主義に立つならば、1/10のために9/10の時間を無駄にする理由がわからない。公教育をするという立場に立つのであれば、必要主義になるのはおかしな話。必要主義になった時点で公教育で科目を教えるという発想にはならないはず。

産業的な応用がきく科目といって力学を教えても、工事現場で働くのに力学は要らないし、それを教えたところで国力の基礎を養っていることになっているかは甚だ疑問だが、公教育の目的として①を挙げているならなおさら産業的に応用がきく教育を勧める理由があまりよくわらかない。国民が豊かに生きられるように自分の人生では知ることができないことを知れるチャンスを与えるのが公教育の目的になるのでは?

必要主義になるならばセックスや家族は科目で教えるべき。100%の人間が知って得をする。保健の教科書では女を口説く方法も幸せにしてやれる方法も書いていない。ましてや、性器の位置や相手がどんな反応や気持ちになっているかもわからないわけで互いに男女でいざこざが生じるわけで必要主義に立つならばますます必要。

アイルラ
まず公教育とは社会を作る基礎であって、国家観ありきで決まるもの。今の日本は職業選択の自由等の価値観を認めた上で社会を作っている。生来的に職業が決まり、不必要なものは習わなくていいというのは以前の国家観では正しいが、現代には合わない。限られた予算、限られた時間の中で教育すべきことを絞る中で、個人として、社会としての必要性を根拠にすることは自然である。もちろん教養教育の意義は否定しない。古典だって美術のように教養教育として組み込めばいい。ひろゆき氏等の否定論者は必修化する意義は薄いと言っているだけ。

アベマのコメンテーターも、なぜ古語を必修科目として理解させなければならないのか、優先順位が高いのかという疑問点に答えられていない。万人が習うべきといえるほど「科目として充実している」とは到底思えない。

そもそも優先順位は不要ということであれば、神沢氏の教育に求められるものは何かが不明。優先順位は必要というのであれば、神沢氏の尺度が不明である。

英語に関しては個人への効用ではなく、社会全体への効用を考えているからである。現在の教育システムでは多数に似たり寄ったりな内容を教えなくてはならないので、将来無駄になる内容が多くなるのは必然的である。

ゲノム解析などで(原理的に可能かは知らんが)個々人の適正や好みが判断できるようになり、技術的にオーダーメイドの教育ができるのであれば、無駄になってしまう人にはしなければいい。

産業的な応用がきく科目といって力学を教えることについて何が疑問なのか不明。技術者なしに成り立つ国ではない。現場労働だけが産業ではない。

公教育の目的としての論点について。豊かに生きるとは、経済的困窮を無くすことが第一義である。もちろんバランスの話なので教養教育の必要性を全く否定はしない。心の豊かさを養うための教育はあって然るべきだが、わざわざ当時の言葉で古典を読ませる意義は薄い。現代語訳では当時の感性が分からないとか言い出したら、そもそも文化すら異なる時代の人の考えを理解できるといえる根拠が不明。

プログラミングのための数学について。繰り返すが必要主義一辺倒での議論ではないが、いらない人にはいらない。ただ、必要とする人が多い。文系には必修でなくてもいいとは思う。プログラムを例に出したのは私が悪い。ただ、社会人が学ぶ文系向けの統計の本が売れてることが世相を表している。そして、データサイエンスの重要性がますます高まることは大半の人が同意することであり、教える意義は古典よりはるかに多い。

家族について教える意味が不明。道徳的なことならすでに教えていると二回も指摘した。「科目として教えるべき」というのが、「家族」という科目を新設すべきという話なら理由が不明。性愛についてはもっと教えてもいい。日本は性的な内容の教育をタブーしがちである。古典よりはるかに有意義だと思われる。

神沢
以上の意見に大きく問題はないと考えているが、国家は個人のために存在するのであり、必要性を主張するならば個人の必要性を強調すべき。国家が豊かになることはあくまで目的であり、個人を優先するのが先。

そもそも、古典漢文を本格的に学ぶのは高等学校からであり、中学校で学ぶのは高等学校で学ぶ参考程度の話。高等学校での教育は専門的な知識の習得と幅広い教養の習得が目的。必要主義に立った貴方の主張は中学教育に限った話かもしれないが、中学教育はそこまで重要視されていない。もし、高等学校で学ぶ意義を否定するのであれば、貴方の主張する教養教育を否定することになる。

中学までの義務教育の意図は二つ。ひとつは幅広い生徒に、生きるに必要な読み書きコミュニケーションを教えること。もう一つはさらに学びたい(高等教育に進もう)と思う基礎のようなものを作ること。

教育は個人へ帰属するべき(前にも主張したし、ゲノム解析以降の貴方の話と矛盾するのでは?)。ゲノム解析以降の話に特に異論はないが、コミュニケーションをつくる場は設けるべき。

アイルラ
学校教育法第50条及び51条では高等学校の教育とは明らかに被教育者が社会へ寄与することを目的としている。その点で、社会的必要性によって教育内容を定めるのは当然。教育が個人のためにも必要であることは否定しないが、この範疇で話さないのであれば価値観のぶつけ合いに終止するだけである。

高等学校での教育とは学校教育法第51条によれば、「幅広い教養の習得」ではなく、「一般的な教養の習得」である。教養という面でいえば、理系に進学する人等にとって一般的な教養といえるのか。
ただ、進路によっては必要とする人もいることや内容の豊かさは否定しないので、古典は選択性にして他の科目に時間を回すべきである。

優先順位が必要か否かを答えて頂きたい。また、高校での話をしているので、この内容については触れない。

「個人へ帰属すべき」とは具体的に何を教育の指針にすべきというのか。そこからなぜ古典を必修化すべきかを主張できるか。優先順位はいらず、「古典でもいい」程度の価値で必修化する意義が不明。

ゲノム解析以降の話の矛盾点が分からないが、本質的な部分ではないので具体的な指摘があった場合だけ書き込む。

(教師しんどいさんの記事に触れ)私は不要2の考え方。しかしこの人の反論は的を射ていない。

過去の叡智を知るための術として古文を読めなきゃいけないという道理が不明。物理は一時期ドイツ語の論文が主要だったけど、ドイツ語の論文を読めない人もたくさんいる。アカデミックのための高校ではないのだから必修である必要はない(アカデミックのためでもあるが、そうでない人のためでもある)。

神沢
古典が不要になるのであれば同じぐらい他教化も不要。また、古典不要論は古典の学習の仕方に問題があると指摘あるだけである。古典の意義はいいものだから残ってるということ。いいものも内容がいいからというのみではなく、その表現が秀逸であるからである。したがって芸術に近いから不要なのではないかと思われる他教化もさほど変わらない。古典要らない人は理系科目も要らないだろ、となってしかるべき。アイルラ氏が文系生における理系科目も選択にするのであれば古典も選択でよい、と考えてよい。

アイルラ
神沢氏の主張は古文漢文が他科目と比べて相対的に必要というところにあるようである。

以上



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