この文章がなによりどうでもいい

 個人にとって、報道されるような類の政治的問題や災害というのは、実際のところ、どうでもいいのである。世間がどうなろうが何だろうが、知ったことではない。僕も含め、日本人とはそういう習性を持った民族であろう。具体的な問題が迫ってこないと、注視しない。今すぐ我が身に振りかかる火の粉でなければ、意識する必要すらない。多くの政治的問題は、だから関心を呼ばないのである。
 
 自然災害についても全く同じことが言える。昨今話題の新型コロナウィルスのようなウィルスによる災害は、地震や台風のように目に見える被害を起こすわけではない。我々が意識しないうちに、社会に入り込んで、爆発する。時間を経ないとわかりえないものだから、これについては後手に回るのは仕方がない。だが、地震や台風はどうか。南海トラフ巨大地震が、今後数十年のうちに高い確率で起こることは、周知のとおりである。また、台風は毎年初夏から秋にかけて日本列島全域に猛威を振るい、その規模も次第に強力なものになってきている。これこそ、わかりきっている具体的な問題であろう。
 
 なのに、迫りくるその脅威に対する対策は、あまり練られてはいない。それも当然で、要は練っても無駄だからである。都心だろうが、地方であろうが、避難所の絶対数が全く足りない。激甚災害が起きた場合に、被害の大きいと予想されるであろう地域の人々全員を収容することなどできない。ごく少数あぶれる人がいるのではない、あぶれるのが常なのである。それが現状なら、どうにもならない。
 
 どうにもならないというところに立ち返って、今一度対策を考えている地方自治体も小数ながらある。ゼロメートル地帯である江戸川区は、避難所の絶対数を補うために、高層建築物を一時避難所として使ったり、隣接する区に避難者の受け入れをしてもらうなどの対策をしていたと記憶している。隣接する県に退避する、また高層住宅に住む人には籠城避難を求めたりもしている。また、極めて地域に特化し、かつ明瞭なハザードマップや災害避難マニュアルを作成したことでも、定評がある。江戸川区はそうした具体的な対策をした数少ない地方自治体である。
 
 こうした先手を打つことが、自然災害の被害を最小限に抑えるために必要なことなのは、誰だってわかっているはずである。もちろん、自然は常にそれを超えてくる。人知の及ばないものが自然だからである。人知の結晶たる堤防やハザードマップが、それに打ち勝つというのは不可能である。『沈黙の春』を書いたレイチェル・カーソンが主張したのは、そのことであった。

 だからといって、策を疎かにできるか。疎かにすれば、それだけ人も死ぬ。経済的打撃も、想像を絶するものになる。そうしたことは、2011年に多くの人が知っているはずなのである。それでも、十分に策を弄さないのは、やはり我々の意識の上では、眼前に迫った問題でないからであろう。いつか起こるだろうが、そんときはそんときでしょ、というわけである。さらに加えていえば、2011年の東方地震のような災害が起こっても、そこからすぐに立ち治って復活したように、多くの人が思っているのである。僕は関東に住んでいたが、2月もすれば、ほぼ元の日常が戻っていた。災害は、メディアの中だけにあった、一種の幻想のようなものであった。東北に縁のない人は、そう感じたのではないか。それは、自分に振りかかった火の粉ではないからである。

 その場その場でなんとかなっているように「見える」。それは見なしの問題に過ぎない。それでいいというなら、特にいうことはない。後になって己に問題が波及してきて文句を垂れようが、それはおざなりにしてきたツケが来たと思うしかない。そうなりたくないなら、せめて意識の上でも、十分に危惧しておくべきではないか。

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