ノートの書き方と、あと読書

 なにかの本を精読するのであればノートは必須であろう、と思って読書の傍らに大学ノートを一冊用意する。用意するのは良いが、実際に何かを書こうと思うと、はて何を書けばいいのか、これが全く分からない。ちょいと小難しい本を読んでいたとしても、そこからなにを抽出して、それをどうノートの紙面上に表現してみせればいいのか、これがわからないのである。
 そういえば自分は勉強のために小難しい本を読んでいたのかしら、と頭に些細な疑問がよぎる。本を読む動機なんて、ほとんど考えたことがない。これこれのために読む、なんていう目的論的な読書をしていると、次第にその目的に囚われて、目が紙面を滑るだけになる。じゃあ、興味関心とか面白いからとか、そういう至極単純な理由で読んでいるのか。それもあるけど、それだけじゃない、という気がする。どこかに何か、世界を把握したいというような大層な欲望を抱えているから読書をするのである。それじゃあそれは勉強のための読書ではないのか。まぁ、そうかもしれない。そういうことにしておこう。
 勉強のための読書ということにしておいたとして、その場合ノートには何を書くか。そもそもノートとはどのように書いていくものだっただろうか、学校でのことを例にとって思い出してみよう。何を書いていたのかしら。まず板書をノートに写す。これは基本中の基本である。次に先生が喋っていたが板書はしなかった、付記的なことを書き起こす。これは本でいえば文末脚注のようなものであろうか。あとは教科書に書いてあった別の説とかを書いたりとか、残った空白に全く関係のないラクガキをしたりとか、そんなものであろう。
 こういった行為はたぶんよくできていて、つまり物事の習得には同じことの繰り返し、ある種のリズムが必要だということを、忠実に実行しているのである。先生の板書を一目見て覚えられるなら、映す必要はない。聞いていたことを書き起こすことも、教科書に書いてあったことを別の紙面に書くというのも、そこに書いてあるから必要ない、聞いたから覚えているというのなら当然いらない。でも人間そんな都合よくは出来てないので、面倒ながら同じことを繰り返して覚えるという作業が必要になる。だから書き写しや音声を書き起こすといった作業が必要になるのである。
 私はこのような作業のうち、板書ぐらいしかまともに実行していたものはなかった。先生が言っていることは馬耳東風だし、教科書に書いていることなんて、それこそ教科書に書いてあるんだからその都度見ればよろしい。そういう態度であった。
 こういう風に硬い思考をしてると困ったことになるのが受験勉強で、とにもかくにも主体的に勉強するという行為がどこかしらに必要になるのだが、これがどうにも上手くいかなくなる。受験勉強は、自分の理解なら上の勉強法のミックス+αになる。+αは人によって違うかもしれないが、とにかく基礎固めは大事だということは共通しているのではないか。私はその基礎がすっかりそのまま抜けてたから、どうしていいやらわかりませんという醜態を晒すことになる。
 「勉強をどうしていいやらわからないんですが、どうしたらいいでしょう」というような馬鹿な質問を先生とか塾講師に投げかけたりすると(こんな馬鹿でも塾に行く、いや行かせてもらえた。勉強したことは覚えていないが塾講師との会話が面白かった、その記憶は今でも財産である)、「なんでもいいからとにかく書け」と言われたりする。だから英単語をノートの紙面びっしり書いたりしてゲシュタルト崩壊を起こしたりする。どのクラスにも紙面びっしり漢字英単語のやつはいるだろう。それは私である。基礎固めを疎かにした者のなれの果てである。
 そんなことだから、本を読んでいて同時にノートに何か書いたりするなんて到底無理なのである。この文章みたいな妄言なら多分いくらでもできるが、要約とか本を主題にした論述とかは今でもからっきしである。
 それでも何か気になるとこや覚えたいところには付箋紙を貼る。でも、読み終わって一週間くらい経つと、読んだことは覚えていても内容は八割ほど忘れている。当然、付箋紙をどこに貼ったかなど覚えていない。はて、一週間前の私はどこに貼っていたのかしら、と紙面を起こすと…

ケン・ウィルバー著『無境界 自己成長のセラピー論』P166


 かっけ~~~~~~~。ご丁寧に線まで引いている。「義務感とは他人からの要求の重みではなく、自分自身の認知されていない友情の重みなのだ。」というこの短い文章の中で義務の性質と心理的なジレンマを見事に表現している。
 たぶん、私が文章に線を引いたり、付箋紙を貼るのは、それが面白いとかカッコイイ言い回しだと思うからなのである。知識とか、そんなのは余分であって、身に付いたら身に付いたで儲けもんだろう、というくらいにしか思っていない。読書というのは、それなりに高尚な行為のように思われている節があるが、内実はこれくらい低俗な人もいるのである。こういう読み方をしている人は、他にも大勢いるのではないか。そうした人にとっては、きっとノートは不要である。時々読み返して「かっけ~~~~~~~」で、それでいいではないか。
 ところで手元のノートはどうしようか。どうせなら私的名言集にでもしてしまおうか。それこそ高尚な「知的営み」にでもなりそうだし、いまさらノートの書き方を覚えることが出来るかもしれない。


(トランスパーソナル心理学の旗手だとかインテグラル理論の提唱者とかいってどうにも胡散臭くて敬遠していたのだが、最近神秘主義の本を読んでいてどうにも気になって読んだら結構面白かった。境界の発生やその心理的段階の説明も良いし、ユング心理学などの説明も簡潔で、ある種心理学の入門書的な体がある。後半の実践的な瞑想だがなんだかは事実かどうか疑わしい、神秘主義を実践しようとは思わないので…。ただ超越的な領域の記述が何とも詩的で、そうした文体の面白さもある本なのでした。)



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