「感動は感情的ではない。全身全霊で虚無感と新しい世界への高揚感を味わうことだ」

良い本、良い映画、良い音楽ーーー良いものとの出会い。

自分が「良い」と感じるものに出会った夜は寝付けない。高揚しているのは確かなのだか、冷静な自分もそこにはいる。この名状しがたい感覚を言葉にしてみようと思う。

私がこの感覚を味わったことを思い出せるは小学校の頃だ。小学校の時に毎年新刊が出版されていた「ハリーポッター」、何度も読み返した「ダレン・シャン」。本を手に取るなり、寝る間も惜しんで読み続けた。歩きながら、トイレ、もちろんベットの上でもだ。文章をひとつひとつ味わうのではなく、自分が欲するままにページを捲り続け、気づけば読み終えていた。読み終えた本を閉じた瞬間、心臓のざわつきが全身を駆け巡り、脳が興奮して、じっとしてしていられなかった。その脳の興奮に疲れ切ってベットに倒れこみ、天井を見つめ続けているうちに眠りについていた。

この感覚は今でも思い出せる。というより、今でも良いものに出会った際に起こる現象なのだ。

何気に古本屋で買った100円の安部公房の「砂の女」を読み終えたとき、聞いたことあるという理由だけで借りた映画「ゴットファザー」を観終わったとき。これらは私に本、映画の世界に脚を踏み入れさせれくれたものたちである。良いものとの出会いは数多くはなく、出会った場所も時期も曖昧であるが、その時の感覚だけは身体に刻まれている。この感覚が私を構成していると言い切れる。

感動は感情的ではない。決まって何処からともなく現れる得体の知れないエネルギーが自分の芯の芯、無限点から自分に向かって来て、脳からつま先まで揺らし、脳震盪を起こす。比喩表現ではあるが、比喩ではない。このエネルギーは、今まで培ってきた自分の中の経験、価値観、プライド、その他諸々が崩壊した衝撃なのだ。そこに感情も言葉もなく、虚無感が自分を支配している状態。ただ、そこに新たな自分となり得る、文字通りの希望の光を見つけだし、高揚しているのだ。

私はこれまでの自分を崩壊させてくれる、「衝撃」を常に期待している。自己否定ともいえる衝撃はやはり恐怖でもある。この崩壊に対する恐怖に耐えれるのは、今まで出会ってきた「良いもの」たちのおかげである。自分自身が崩壊しても、決して変わることなくそこに「良いもの」は存在するのだ。私が私であるためには、自己否定が必ずなくてはならないと考えている。それも圧倒的な存在による自己否定だ。自分の定規による成長の尺度などはあてにならない。成長という連続的なものではなく、断続的に人は「進化」していくと信じている。

自分にとって良いものはどこに転がっているか見当もつかない。伝統の中に静かに鎮座しているかもしれない。絶えず生まれては消える現代のモノの中に一瞬だけ顔を出しているかもしれない。はたまた、代り映えのないと思っていた日々の生活の中で既に手に取っているかもしれない。

良いものとの出会いで「全身全霊で虚無感と新しい世界への高揚感を味わうこと」を期待して、これからも生きていくつもりだ。