アナログ派の愉しみ/映画◎ヤン・ヨンヒ監督『ディア・ピョンヤン』

父と娘の
果たしあいの記録


わたしにとって、この映画は観る前と後で世界がまったく違って立ち現れる、そんな映画のひとつだ。在日コリアンのヤン・ソンヒ(梁英姫)監督がみずからの家族を題材としたドキュメンタリー『ディア・ピョンヤン』(2006年)である。

 
「アメリカ人と日本人はダメだ」。アボジ(お父さん)は一刀両断にする。正月に実家へ戻ってきたひとり娘の「私」に向かって、だれでもいいから彼氏をつくれ、と告げてからこう言い足したのだ。朝鮮人だったらいい、と。そこで「私」が、だれでもいいって言ったくせに、じゃあ、アメリカ国籍の朝鮮人はどうなの? と反問するなり、あかん、と手を振るアボジの様子を、オムニ(お母さん)が横目で眺めている。これが冒頭のシーンだ。

 
ところは大阪市生野区(旧・猪飼野)、在日コリアンのメッカといわれる地域らしい。韓国済州島出身のアボジはこの町で太平洋戦争の終結を迎えたのち、朝鮮半島の南北分断にともなって在日コリアンも韓国籍の大韓民国民団(民団)と朝鮮籍の朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)に分かれると、北を支持して朝鮮籍を取得し、朝鮮総聯大阪本部の熱心な活動家として生きはじめる。やがて同志のオムニと出会って結婚し、三男一女に恵まれるが、当時、鳴り物入りで在日コリアンの北への「帰国事業」が展開されたなかで、1971年、両親はまだ学生だった3人の兄を「地上の楽園」に送りだし、あとには幼い妹が残された。

 
その「私」が兄たちと再会を果たしたのは11年後のこと、朝鮮学校代表団の一員としてピョンヤンを訪問したときだった。しかし、家族であっても自由な交流は許されず、ほんの短い時間だけ面会できた兄たちは口数も少なく痩せ細っていて、それまで革命的・愛国的な模範生だった「私」は祖国へ強い違和感を抱くようになる。

 
映画はこうした過去の経緯を踏まえて、2001年10月、アボジの古希(70歳)の祝賀会がピョンヤンで開かれた模様を追っていく。両親と「私」は新潟港から「万景峰号」で北の玄関口・ウォンサン港へ向かい、そこからはバスに乗り換えて荒れた地を行き、3日がかりでピョンヤンに到着する。現在では3人の兄はみな結婚して孫も6人を数えるという。かれらの住む質素な集合住宅で、嫁たちから両親それぞれに民族衣装がプレゼントされたり、音楽舞踏学校に通う長兄の息子がピアノでリストやショパンの曲を演奏してくれたり。そこには、ふだん顔を合わせられないだけに細やかな身内同士の情が通っているようだ。

 
祝賀会当日は親族ばかりでなく、かつて在日コリアンの仲間だった帰国者たちも参加し、総勢100人によって賑々しく営まれた(計25万円の経費は兄たちが出したものの、実のところ、かねてオムニが頻繁に行ってきた仕送りで賄われたという)。そして、胸いっぱいに勲章をつけたアボジは、最後に挨拶に立つと、祖国のための仕事に就いて55年が経ったいま、自分に残された使命はここに集う息子や嫁や孫たちを立派な革命家に育て上げることだと弁じ、「熱烈なキム・ジョンイル主義者に!」と声を張り上げた。この演説を聞いて「私」はいたたまれなくなり、もはや両親と離別して独立独歩で生きていくべきと決意する。

 
一体、ここに描かれているものはなんだろう? 確かに、映像は「地上の楽園」とはほど遠い北朝鮮の現実を写しだし、その国籍を両親が選び取ったことで、ごく当たり前のきょうだいの仲を引き裂かれ、たったひとり孤独の淵に追いやられた「私」の姿をあらわにしていく。だが、こうして国家とは何か、家族とは何か、愛とは何か……と突きつめないではいられない親子の関係よりも、それらの問いを棚上げにしてやり過ごすわれわれのほうが本当に優っているのだろうか。

 
冒頭のシーンは、祝賀会から数年後、久しぶりに実家へ戻った「私」がアボジにカメラを向けたものだ。そのやりとりはさながら果たしあいといった趣き。「私」が映像作家として世界のどこへも出かけられるよう国籍を朝鮮籍から韓国籍に変えたいと告げると、アボジはさんざんクダを巻いたあげくにようやく承諾した。そのあと、脳梗塞を起こして倒れてしまう。病院のベッドの上でチューブにつながれ、アボジが動かない口を懸命に動かそうとするラストシーンは、わたしにリア王のセリフを思い出させた。

 
「涙を流しているのか? そうだ、涙だ。頼む、泣かないでくれ。お前が盛った毒なら私は飲む」(松岡和子訳)

 
傲岸不遜な父親がおちぶれ、かつて自分に向かってただひとり歯に衣着せぬ物言いをしたことで絶縁した娘コーディリアと再会して、改悛の情を伝えた言葉だ。このアボジと「私」の深刻なあまりユーモラスでさえある果たしあいも、親子というものの愚かさとそれゆえの愛おしさを描いてシェイクスピア劇に匹敵する、とわたしは考えている。
 

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