アナログ派の愉しみ/本◎嘉村礒多 著『崖の下』

「私小説」とは
ひとつの詩の形式ではないか


大正から昭和の戦前・戦後を通じて、文学史上のいちばんのキイワードは「私小説」だった。それが平成を経て、令和の時代を迎えたいま、ほとんど死語に等しい印象があるのはどうしたわけだろう。ありのままの自己をさらけだす方法論が説得力を失ったのか、それとも、だれもかれも自己をさらけだすのが当たり前になって、ことさら「私小説」を標榜する必要がなくなったのだろうか。

 
その事情はともかく、わたしは「私小説」といわれると、条件反射的に嘉村礒多(かむらいそた)の名が脳裏に浮かぶ。1897年山口県の地主の家に生まれて、幼いころから文学を好み、旧制中学を中退後は仏教やキリスト教に親しんで、家業を手伝いながら結婚して長男を得たものの、やがて勤めに出た先の女学校の教師・小川ちとせと恋仲になり、郷里に妻子を残したまま駆け落ちして上京する。そんな礒多が1928年、30歳のときに執筆した『崖の下』は、出奔から1年半ほどが経過して、本郷区(現・文京区)森川町の断崖に面した陋屋で暮らす日々を綴った短篇だ。

 
手に手を取って逃げてきた二人のあいだもいつしか諍いが起きるようになり、ある日、親族から妻子の近況を知らせる手紙が届いたのをちとせが目にして、だしぬけに「あなた、奥さんはともかく、お子さんには執着がおありでしょう?」と詰め寄ってきた。そのときである。自分(作中では圭一郎)がふいに過去の家族の光景を思い返した個所を以下に、途中を略することなく、原文どおりの仮名遣いで引用しよう。

 
 ――圭一郎が離れ部屋で長い毛糸の針を動かして編物をしてゐる妻の傍に寝ころんで楽しく語り合つてゐると、折からとんとんと廊下を走る音がして子供が遣つて来るのであつた。「母ちやん、何してゐた?」と立ちどまつて詰めるやうに妻を見上げると、持つてゐた枇杷の実を投げ棄てて、行きなり妻の膝の上にどつかと馬乗りに飛び乗り、そして、きちんとちがへてあつた襟をぐつと開き、毬栗頭を妻の柔かい胸肌に押しつけて乳房に喰ひついた。さも渇してゐたかの如く、ちやうど犢(こうし)が親牛の乳を貪る時のやうな乱暴な恰好をしてごくごくと咽喉を鳴らして美味さうに飲むのだつた。見てゐた彼は妬ましさに身震ひした。
 「乳はもう飲ますな、お前が痩せるのが眼に立つて見える」
 「下がをらんと如何しても飲まないではききません」
 「莫迦(ばか)言へ、飲ますから飲むのだ。唐辛しでも乳房へなすりつけて置いてやれ」
 「敏ちやん、もうお止しなさんせ、おしまひにしないと父ちやんに叱られる」
 子供はちよいと乳房をはなし、じろりと敵意のこもつた斜視を向けて圭一郎を見たが、妻と顔見合せてにつたり笑ひ合ふと又乳房に吸ひついた。目鼻立ちは自分に瓜二つでも、心のうちの卑しさを直ぐに見せるやうな、偽りの多い笑顔だけは妻にそつくりだつた。
 「飲ますなと言つたら飲ますな! 一言いつたらそれで諾け!」
 妻は思はず両手で持つて子供の顔をぐいと向うに突き退けたほど自分の剣幕はひどかつた。子供は真赤に怒つて妻の胸のあたりを無茶苦茶に掻き毟つた。圭一郎はかつと逆上(のぼ)せてあばれる子供を遮二無二おつ取つて地べたの上におつぽり出した。
 「父ちやんの馬鹿やい、のらくらもの」
 「生意気言ふな」
 彼は机の上の燐寸(マッチ)の箱を子供目蒐(めが)けて投げつけた。子供も負けん気になつて自分目蒐けて投げ返した。彼は又投げた。子供も又やり返すと、今度は素早く背を向けて駈け出した。矢庭に圭一郎は庭に飛び下りた。徒跣(かちはだし)のまま追つ駈けて行つて閉まつた枝折戸で行き詰まつた子供を、既の事で引き捉へようとした途端、妻は身を躍らして自分を抱き留めた。
 「何を乱暴なことなさいます! 五つ六つの頑是ない子供相手に!」妻は子供を逸早く抱きかかへると激昂のあまり鼻血をたらたら流してゐる圭一郎を介(かま)ひもせず続けた。「何をまあ、あなたといふ人は、子供にまで悋気をやいて。いいから幾らでもこんな乱暴をなさい。今にだんだん感情がこじれて来て、たうとうあなたとお母さんとのやうな取返しのつかない睨み合ひの親子になつてしまふから……ね、敏ちやん、泣かんでもいい。母さんだけは、母さんだけは、お前を何時迄も何時迄も可愛がつて上げるから、碌でなしの父ちやんなんか何処かへ行つて一生帰つて来んけりゃいい」

 
いかがだろう? わたしにとってはレッキとした散文詩だ。妻の乳房をめぐって幼い息子といがみあう場面を描きながら、それらの言葉がひとつひとつ相互に共鳴して小宇宙を形成しているではないか。かくもぶざまな自己に礒多は詩を見出した。ただ自己をさらけだしたところで何物でもあるまい、「私小説」とはひとつの詩の形式なのだとわたしは思う。さらに敷衍するなら、一般に「私小説」は近代日本がヨーロッパの自然主義文学と出会った刺激から出現したと見なされているが、同時に、より深いところでは古事記・万葉集以来の詩歌の水脈に棹を差すものでもあったのではないだろうか。


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