アナログ派の愉しみ/映画◎黒澤 明 監督『生きる』

困った傑作。この主人公のような
ひとりよがりのヒロイズムはありえない


困った傑作だ。黒澤明監督がつくった30作品のなかでも、『生きる』(1952年)は一、二を争う傑作と見なされている。わたしも高校生のときに出会って以来、これまで10回近く鑑賞を繰り返して、そのたびに感動を新たにしてきた……と言いたいのだが、実のところ、主人公の渡辺勘治(志村喬)と同じ50代に自分が達したころから、とんと心動かされなくなってしまった。こうした心境の変化はわたしひとりだけとは思えないのだが、どうだろう?

市役所の市民課長・渡辺は定年間近のいま、ハンコを押すだけの無気力な毎日を送っていたが、病院の検査で、どうやら自分が胃がんで余命いくばくもないらしいことを知る。かれは男やもめで息子夫婦と同居していたが、心中の苦衷を切り出せない。思い乱れて夜の歓楽街をさまよったり、元部下の若い女性につきまとったりしたあげく、その女性のひと言から、モノをつくって残すことで生きた証にしようと決意する。ここまでが前半。後半はいきなり渡辺の通夜の席となって、そこに集った市役所の同僚たちが酔いにまかせて故人の思い出を語りあううち、かれが自身の病気を知りながら死力を振り絞って、住民から嘆願されていた児童公園の建設を成し遂げたことが明らかになっていく……。

前半の仮借ない絶望の描写と、後半の「倒叙法」で真相が判明するスリリングな展開に、若い時分のわたしは圧倒され、まさに生きることの意義を見出して感涙をこぼしたものだ。しかし、いまや還暦も過ぎてわかったのだ。これまでがんその他の病気により幾人も見送ってきて、渡辺のような行動を取った人物は皆無だったばかりか、そもそもひとは老いや病気と対峙してこうしたひとりよがりのヒロイズムに走ることはありえない、と。

この映画を撮ったとき、黒澤は42歳。まさに気鋭の映画監督としてエネルギッシュに驀進する途上にあり、およそ自己の内部に老いや病気を見出す状況ではなかった。つまり、ここにおいて老いや病気のテーマは、ひとえにドラマを成り立たせるための素材として扱われているに過ぎない。その証拠に、黒澤はつぎにはハリウッドの西部劇の向こうを張った大活劇『七人の侍』(1954年)に取り組み、そこにも志村喬以下、この映画に出演した俳優たちを引き続き起用しているのだから。このへんのさっぱりした割り切り方が、黒澤映画をどんな年代の観客にもわかりやすくする半面、ときにテーマの掘り下げに物足りなさを感じさせるゆえんでもあろう。

では、どうすれば『生きる』はより大きな説得力を獲得できたのか。はなはだ僭越を承知のうえで、わたしなりの対案を示してみたい。実は、黒澤が「倒叙法」を用いるのはこの作品が初めてではなく、芥川龍之介の短篇小説をもとに映画化した『羅生門』(1950年)で見事な成功を収めていることは周知のとおり。その前例を踏まえて、こうしてみたらどうだろう?

映画で渡辺の通夜のシーンは、弔問客たちが引き上げて静寂を取り戻したのち、息子が妻に向かって、「階段の下に貯金通帳と印鑑、退職金受領手続きの書類があった。オヤジもひどいよな、胃がんなら胃がんと言ってくれたら。なぜもっと早く……」と涙ながらに告げて結ばれている。ここが引っかかるのだ。親子の断絶を強調したいにせよ、いくらなんでも同じ家で寝起きして、実の父親が胃がんの末期に至って痩せさらばえ、食事もままならなくなった容態にまったく気づかぬはずはあるまい。

そうではなく、息子は葬儀の席上、市役所の同僚たちに向かって言明するのだ。自分たち夫婦はちゃんとオヤジの病状を知っていた、そして、医師と相談して必要な措置を講じながら最後の仕事をサポートしてきた、つまり、あの児童公園の完成はわれわれ父子の連携プレーといっても過言ではない、オヤジはその喜びと安らぎのなかで夜のブランコに揺られて『ゴンドラの唄』をうたったのだ、と――。もとより、この新たな証言がどこまで信用できるのか、果たして真相を解き明かしているのか、あるいはたんに世間体を慮っての絵空事なのか、そのへんは映画の観客に委ねればいい。観客はみずからの家庭の内実に照らしてそれぞれに判断するだろう。


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