アナログ派の愉しみ/本◎中島 敦 著『山月記』

虎と化した詩人が
いまこそ謳うべきは


中島敦の『山月記』(1942年)は高校の国語教科書の定番中の定番だったから、どうしたってそこに人生の正しい教訓を読み取らなくてはならないという態度が広く刷り込まれてしまったように思う。実際、自尊心に翻弄される主人公のありさまは高校生たちにとっても身につまされるものだったろう。

 
中国唐の時代、李徴(りちょう)という秀才が傲慢不遜な性格のせいで役人の生活に馴染めず、妻子がありながら仕事をなげうって、このうえは詩人として世に出ようとしながら思うにまかせぬうち、ついに発狂して行方をくらましてしまう。翌年のこと、監察御史の袁傪(えんさん)が公務で旅行に出て、人喰い虎と出くわしたところ、それがかつての友人・李徴であり、あわてて草むらに身を隠した相手の述懐によれば「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」のせいでこんな姿になったと知る場面では、生意気盛りの高校生もたいてい固唾を呑んだはずだ。われわれだって図に乗っていたらバケモノになるかも……。

 
だが、李徴はいまなお性懲りもなく、これまで自分のつくった詩篇がずいぶんあって、それらの一部なりとも世間に伝えないでは死んでも死に切れないと言い、ぜひとも記録してほしいと頼むと、袁傪は快諾して部下に書き取らせることに。そのあとに続く個所を原文どおりの表記で引用しよう。

 
 李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次の様に感じてゐた。成程作者の資質が第一流に属するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠ける所があるのではいか、と。

 
さあ、そこで問題。ここで袁傪が指摘する「どこか欠けるところ」とは何か? 正解、「人間性の欠如」。おそらく高校の国語の授業ではどこでもこんな問答がやりとりされたのではないだろうか。実際、このあとで李徴自身が袁傪に対してもうひとつ、妻子が路頭に迷わないよう計らってほしいと頼んでから、本当はこちらを先にすべきところ、こうして自分の詩業のほうを気にかけるような男だからこんな獣に身を落とすのだ、とみずから述懐しているのだ。だが、本当にそれが正解だろうか? 古今東西、妻子を顧みずに自己の創作に邁進した偉大な芸術家はいくらでも存在するではないか。

 
30代になったばかりの中島が清朝の説話を下敷きに、発表のあてもなく『山月記』作品を書いたのは、幼いころから秀才の誉れが高く、第一高等学校から東京帝国大学というエリートコースを歩んだものの、卒業してみたらさしたる就職先も見つからず、心ならずも女学校の教師をつとめているときのことだった。すでに妻子がありながら先行きに展望を見出せず、喘息の発作に苦しみながらの執筆であったことを考えると、李徴の姿にいささかの皮肉をもって自己を投影していたことは間違いないだろう。だとすれば、いまさら説教がましく「人間性の欠如」などが主題になるはずがない。

 
李徴はしきりに自分の詩が世間に知られないことを憂いているのだが、詩人という芸術家たるもの、まずはおのれ独自の詩境を開くことが目的であって、それと世間との関係は手段に過ぎないはずで、つまりかれにおいては目的と手段が転倒しているのである。おすらく中島も自己のなかにこうした転倒が巣食っていることを重々承知したうえで、そこから一歩を踏みだす可能性をこの小説に託したとすると、全体像がまるで異なって見えてくる。ラストシーンでは、訣別の言葉を交わし去り行く袁傪に向かって、李徴は、あの丘に上がって振り返ってもらえたら、最後にもう一度自分の醜悪な姿をお目に掛けよう、と告げると――。

 
 忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二声三声咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再びその姿を見なかつた。

 
まさしく人間の矛盾がもたらす壮絶な美の光景。実のところ、それこそが李徴の畢生の詩であり、他のだれも到達することのできない作品として世に残っていくことだろう。高校生の時分ならいざ知らす、わたしもこの年齢になってみると、中島が企図した主題はそこにあったと思えてならないのだが、どうだろうか。


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