アナログ派の愉しみ/本◎竹越与三郎 著『二千五百年史』

変革期の政治のための
気宇壮大な指針


まことに気宇壮大としか評する言葉が見つからない。往年のベストセラー『二千五百年史』のことだ。何しろ、神武天皇が大和朝廷を創始した神話の時代にはじまり、大政奉還によって王政復古が実現した明治の近代へ至るまでの、皇紀2500年間におよぶ歴史をまるごと、わずか31歳の青年が叙述してのけたのだから。

 
著者の竹越与三郎は1865年(慶応元年)に生まれ、新潟県で幼少期を送り、家族の反対を押し切って上京して慶応義塾で学んだのち、1889年(明治22年)に民友社に入るとジャーナリストとして活躍し、1896年(明治29年)には『世界之日本』の主筆に転じるとともに、くだんの『二千五百年史』を世に問うて大反響を巻き起こした。のちに、かれは立憲政友会から衆議院議員に立候補して連続5回当選を果たし、旺盛な政治活動を繰り広げる。すなわち、講談社学術文庫版で上下巻ざっと千ページのこの大著に取り組んだのも、日本の新たな将来に向けて指針を示そうとしたものだったろう。

 
そのために、皇国史観に囚われず、もっぱら英国の政治家であり歴史家でもあったトーマス・マコーリーの『イングランド史』を参照したことにより、当時としては異例の世界史的な視野を獲得した。たとえば、巻頭はこんなふうに書き出される。

 
 波濤の拍(う)つところは文明の起るところなり。なんとなれば文明とは人と人との交通の結果にほかならずして、太古にありては人類は草木の種子の風に散布せられ、鳥獣の身体に附着し、その胃腑(いのふ)に入りて天が下に分配せらるるがごとく、多く風と海潮とによりて無意識的に世界に分配せられ、その交通せんとするやまた多くは風と海潮との力に依頼せしが故なり。さればギリシア、フェニキアの開化もかくのごとくして進み、シナ大陸の開化も山東江淮(こうわい)の地より起りしがごとく、日本文明の歴史もまたまず海岸人民の記事によりて開かる。

 
地政学上からすると、極東の小さな島国も、世界各地で海洋に面して大文明を興した国も、出発点はまったく等しいと説くのだ。その種子が芽吹き枝葉を繁らせるように国家が形成されていき、やがて立ち現れる変革期の局面に竹越の関心が向かうのは当然だったろう。源頼朝が鎌倉幕府を開いた記事にそうした意気込みがよく窺われるので、少々長くなるが引用してみたい。まさに面目躍如というべきだ。

 
 卒然としてこれを見れば、これただ政権平氏より源氏に移りしのみ。しかれどもその実は、古今絶大の国体変革なり。国初以来、南人は常に北人を征服し来れり。神武の征戦を初めとして、やまとだけ(やまとたける)の遠征、桓武の北征、藤原の専横、平氏の跋扈、みな南人が北人を鎮圧したる歴史なり。今や歴史あって以来、一千八百年。北人は初めて南人を鎮圧し京都の守護、中国の追捕、九州の探題みな北人の業となり、しからざるも北人に隷属する者の手に帰しぬ。故に頼朝の勝利は人種をもってすれば南人に対する北人の勝利なり。更に思想上よりこれをいえば武断的民主思想が、貴族的王朝思想に勝ちしなり。〔中略〕ローマのごときはその先民のほかに、外来貴族の専制を加うること数百年なる日本と相同じ。しかしてキリスト前一百八十年にウィナスの率いたる奴隷戦争あり。同じく一百三十七年にグラックスの平民を率いて貴族と対抗して、班田法を行うあり、爾来一起一仆(いっきいっぷ)、やむ時なくその争闘数百年に延(ひ)く。すでにして、紀元四百七十六年、北方チュートン人種の首領オドアカルが大兵を率いて西ローマ帝国を亡滅するに至って、北人全く南人に勝つ。鎌倉の勝利はすなわち彼における数百年の事業を、一朝にして遂げたるものなり。故に頼朝は、その身武将にして、貴族の血液を有すといえども、その位地はウィナスの位地なり。グラックスの位置なり。オドアカルの位置なり。国体ひとたび天智の手によりて替られ、頼朝に至って再び根本より変革せられ、その変や更に大、かつ深し。

 
とりあえず歴史的な解釈としての妥当性は問うまい。ここにあるのは、国家の運営をめぐる権力闘争の原理を探り、その原理もやはり世界史の広がりのなかで掴み取ろうとする態度だ。北人/南人、武断的/貴族的などの構図は、それぞれの時代に様相を変えながらつねに横たわり、たとえば今日においても、世界じゅうで社会の格差・分断が拡大していく状況下で、そうした立脚点の対立は権力闘争の力学となっているはずだ。

 
さて、わが国ではこのところ、岸田内閣の支持率低迷のなかで、今後の国家運営についての甲論乙駁がかまびすしい。が、果たしてそこに『二千五百年史』が提示したような視野の広がりはどれほどあるだろう? しょせん永田町界隈の論理だけで動いているとしたら情けない。竹越は、徳川家康に託して視野狭窄の政治家への警告も発しているのだ……。

 
けだし家康が信長・秀吉に勝るところはその意志の堅牢なるにあり、この意志や発して組織的能力となる。〔中略〕彼の眼中、一の国家的組織あるのみ。しかもこの組織たるや、世界的の智識なく、寛裕(かんゆう)の度量なく、国家の品位を高め、国家の面積を膨脹せしむるの大望なき組織たりしがため、彼は農民を強いて、貧寒をもってその運命なりと覚悟せしめんとせり。


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