論84.フィジカルとヴォイストレーニング~歌の上達のための本当の基礎とは(巷のヴォイストレーニングの限界)(7835字)

○筋肉とフォーム
 
私たちが、直接にコントロールできるものは筋肉です。骨や皮膚などは、その動きによってしか動かせません。また、鍛えられるのも筋肉です。トレーニングによって、それは強化することができます。強化するためには、負荷を与えることです。
 
トレーニングとは、その負荷の与える運動ということになります。そこには、栄養を与えて、休みを与えることが大切になります。この辺は、フィジカルなトレーニングでいわれている通りです。タンパク質の摂取や、適度な休息によって、より効率的に、筋肉が増強されるわけです。
さらにそれをうまく使うためには、フォームを身に付け、いかにコントロールするかということになります。
 
武道やスポーツでわかるように、体づくりをし、その体の使い方を学ぶということです。
使い方は感覚、体づくりは筋肉、その2つを同時に行っていくのですが、声をメインとすると、ヴォイストレーニングとなります。
 
そのために、あるところまでは、フィジカルトレーニングと同じように考えられます。つまり、マックスの力を使って、マックスの力をつけるようにし、その後に脱力をして、できるだけミニマムな力で、マックスの力を発揮できるようにしていくのです。
そこを素人は飛ばしてしまうので、器が大きくならず、基本が深まらないのです。
多くの場合は、力そのものを競うのではなく、その力によって働かせることでの結果で競うからです。歌もセリフも、そこは、同じことです。
そういうマニュアルでの自主トレーニングでは、なかなか効果がでません。読んで行うだけでは、今、持っている自分の器という殻を破らずにまとめようと急いでしまうからです。
 
○運動と発声の違い
 
フィジカルトレーニングに対して、ヴォイストレーニングで気をつけなくてはならないことは、体の筋肉は、声帯などに比べて、とても大きいことです。直接にその力が働いて運動量の力となりますから、追い込んだりやりすぎても、よほどのことでない限り、限界が来て、おのずと休止に入るわけです。力尽きるのです。
 
しかし、声の場合は、喉そのものの力ではなく、息という空気を生理的、物理的に音に変えるというプロセスがあります。力で行うと思えば、結構なことができるのです。しかし、それはトレーニングになっていないどころか、楽器を痛めることになりかねないのです。また、本人が気づきにくいという弱点があります。なぜなら、日常の声の表現も感情的であるほど、喉にはよくない出しかたをしてきているからです。
 
耳で聞いて判断しなくてはいけないのですが、それを客観的に聞き、しかも、自分自身で判断するということが、とても難しいわけです。自分での判断が、外に聞こえる声の理想の状態とは、一致しないことが多いからです。むしろ、自分の感覚で、感情が入る、あるいは心地よいと判断すると、理想的な発声からは大きく間違ってしまうことが、ほとんどなのです。
 
○才能の出るレベルの設定
 
この点においては、天性の才能ともいうべきか、フィードバックを正しく行い、誰にも教えられずに理想的な発声で、歌えたり、体からの声を身につけていく人も、一定数、いるのは確かです。そういう人たちは、特別なトレーニングがなくても、ある程度のところまでは達します。しかし、ほとんどの人は、その前に限界が来てしまいます。そして、それを才能の差だと思って諦めてしまうわけです。いや、差とか諦めるという意識さえ持てないことが普通です。
 
天性の才能のある人は、そのプロセスを把握しないで、上達するので、そこで、より高いレベルに伸びるのが難しいのです。
それには、耳のあるトレーナーのアドバイスが必要となります。
それ以外の人にとってみては、正しくきちんと習得し、自分の潜在能力が開発されるということさえ、1人では難しいことなので、やはりトレーナーが必要ということになります。
 
第一に、この目標レベルというのが、とてもあいまいで定まらないのです。トレーナーは、そこを第一に伝えなくてはならないのかもしれません。
普通に話せて、歌える人にとって、それでよいと思えば、目標もトレーニングも必要ないからです。
高度な目的とその必要性を与えるということが、高いレベルに向上していくのに必要であり、それを与えるのが、トレーナーの使命、存在意義かもしれません。
 
あいまいだというのは、すごいといわれる人たちのやっていることと自分のは違うとわかるけれど、そのギャップ、つまり、距離やプロセスが見えないということです。
その点では、多くの芸事やスポーツも共通しているのですが、視覚で捉えられないだけに、把握するのがとても難しいのです。しかも、楽器と違い、声には個人差が大きいからです。
 
スポーツのように、完璧とかパーフェクトというような、明確な目標がないので、自分自身の実感やまわりの評価などで判断してしまいがちです。特に、歌は、そうした感情、情緒などに重きをおいた芸事なので、なおさら、向上させ続けることが難しいわけです。環境の影響が、とても大きいといえましょう。
 
○プロセスをメニュにする
 
私自身も、国を超え、歴史に残るような一流のヴォーカリストや役者が、教えることで育てられるとは思いません。できることは、天性の才能の人が、できたことを、そうでなかった人にある程度まで、そのプロセスを与えて、そこを歩むことによって、さらなる可能性が問えるところまでにするということです。
 
そこに表現ということでの天性の才能が落ちてくるかどうかわかりませんが、少なくとも、近づくテクニックはあるのです。しかし、このテクニックが曲者で、そこで安定させたいと思うと、進歩は止まるのです。ギフトが落ちてこなくなるのです。
ですから、ギフトが落ちてくるように準備しておきます。落ちたときに、それを体現できるだけの心身にしていくということです。
楽器の奏者と同じような考えでいうと、ヴォイストレーニングにおいて、完全な音が奏でられるまでの楽器をしっかりと作って、その状態を保つ、いや向上させ続けるというです。
 
どのように演奏するかは、もはや、その人の世界です。ただ歌唱と演奏技術が、声の場合は、はっきりとわからないために、伸びなくなるのです。
基本的なスケールの練習くらいのところまでは、どんなトレーニングにもきちんと入っているわけです。そのスケールがとれるだけで、歌唱として認められ、プロとして活躍している人が、いっぱいいるわけです。楽器のプレーヤーでいえば、10代半ばのレベルくらいでしょう。
 
そこを目指すのであれば、ヴォイストレーニングは確実に、そこまでの距離を縮ませることができるということです。音大やその大学院で学んだ人であれば、充分でしょう。キャリア10年、日本のミュージカルの劇団のオーディションは通ることでしょう。
それは天性の素質ではなく、それなりの勉強をして、そうした技術を獲得し、それを出したところで認められたということです。
稚拙な例えですが、わかりやすいのではないでしょうか。自分一人で10年、歌っていても、そこまでは、なかなかいかないからです。
 
○器づくりと声量
 
大きな声を出せるということは、筋力をつけるようなトレーニングにおいては、大きく力を発揮できるというようなことなので、わかりやすいと思います。
昔の人は、高い声は大きな声で出していたので、そこは一致してたのですが、今、求められる高い声は、さらに高い声であり、大きな声で一致させるようなものではないので、この基準から外れます。けっこう、そこは大きな問題なのです。
 
体力的なことで、大きな力が働き、長く続けられるということは、わかりやすい目安です。
声においても、大きな声が出るというよりは、同じように声がずっと出せるという方が、目安としてはよいのかもしれません。なぜなら、それは、同じフォームで、きちんと再生ができているということであったからです。それこそが基礎ということになります。
 
それとともに、一瞬、大きな声が出たというのでは、スポーツや武道では怪力ということであって、実際には使えません。大きな力が働かせられる人は、だいたいにおいて、それを出すための準備や出した後の構えもできているわけです。そのために柔軟な体を持っているのです。
 
お相撲さんの育成方法を見ると、力をつけるようなことと同時に、力を抜くことを徹底した柔軟運動で行われているのがわかります。当然、怪我をしないためにも、そういったことはすごく大切なのです。攻めは守りからということもあるでしょう。
 
○リラックスでは足らない
 
スポーツの世界では、体力強化や筋トレですが、その限界を感じてメンタルトレーニングやコアトレーニングなどが取り入れられてきました。その影響で、ヴォイストレーニングには結構、頭からリラックスというようなやり方が多いように思います。
 
ヴォイストレーニングに興味を持つ人は、大きな声や高い声で喉を痛めてしまい、回復させなければいけないことが多かったからです。今やその役割は、ヴォイスクリニックなどのお医者さんの役割になっているようです。それもどうかと思うのですが、回復させることと実力をつけるということは、全く違うわけです。
 
今は、このように、自主トレーニングで勝手に突っ走って、痛めるほど声を出して、練習する人さえ少なくなっています。人並み以上の筋力や体力もないのに、声帯のケアやマッサージを受けているだけで、声の出がよくなるから、歌手や役者に必要な発声が身につくと思っているような人も多くなりました。大きな勘違いです。
 
そういう人たちは活動を続けるのに、どれだけの体力や忍耐力、声の地力が必要なのかというのをあまりにもわかっていません。YouTubeに上げてみるくらいのことなら、それでできるわけですから、そこは時代も変わりメディアも変わり、多様な表現や発信方法があるということで否定するつもりはありません。
 
目的が違えば、そのトレーニングやプロセスも違ってくるのは当然のことです。だからこそ、先程の必要性ということを、どこまで意識するかが、その後に大きな差になるということです。
 
○フォームづくり
 
フォームづくりというのは、大体において、面倒であり、普通の人にとっては辛いものです。なぜなら、すでに、自然にフォームに従っているような形で動けている人は、フォームづくりということで、特別に行う必要がないからです。これまでの自分の体感覚や、体の能力などに、反することを教えられるから、どうしてもうまくいかないわけです。
 
特に、筋力などがないと、そのコントロールはできませんから、本来は、フォームというのは、意識した上で、フォームづくりをするのでなく、筋力の方からつけて、その状態になるのを待って、整えていくしかないのです。スポーツでは、基本的なトレーニングをしていたら、あるとき、できた、試合に出たら結果が出たと、そういう形での習得方法になることが多いのです。
 
それに対して、向上しない人、うまくならない人は、試合ばかりに出て、そのときどきの体調によって、大きく成績が異なるのです。うまく出たときの状態を知り、うまく出なかったときの状態を知り、そのギャップを埋めていくことをしなくては、コンスタントに成績は上がりません。大学でいうと、体育会とサークルの違いです。
 
さらなる向上がなく、その条件のところで、限界となってしまいます。常に、条件をよくしていくこと、体をつくり、フォームをつくり、ていねいにコントロールできることに努めなくてはなりません。
特に、喉や、発音器官などについては、細かく扱えるようにしていかなければいけないのです。問題は、何が応用であり、基本であるかということです。
 
○歌やせりふは応用
 
応用ばかりを行うのは、結果としては、すぐに出やすいのですが、その幅には限界があります。大きく変わりたいのであれば、基礎づくりに専念しなくてはなりません。応用をしなくても勝負できるくらいに、基本の力がついたら、それが最もよいわけです。
 
部分的に分けてトレーニングするというのは、欠点補充法であり、大きな意味での、その人の潜在能力が開発されるものではありません。ヴォイストレーニングが多くが、そちらにだけ重点を置いているように思えます。というのは、それを求める人が多いからです。その時点で、自分が大きく伸びる可能性を捨てているといえなくもありません。
 
こうした傾向は、どんどんと強くなってきています。小さい頃から、全身で転げ回って遊んだり、武道やスポーツなどで、体に身につくプロセスというのを体験していないことが、背景にあるようです。学校の勉強や成績などと、この能力は一致しません。ですから、経験不足の人は、今からでも、体に身につけるというような芸事を学んでみることをおすすめします。
 
小さい頃から得意であって、それで認められて、そのまま、レギュラーになったというような人でも、案外と、その点を見落としているわけです。むしろ、自分で何かしらの努力をして、欠点をなくしたとか、全然だめなところから優秀になったというようなプロセスの経験が、とても役立つのです。
 
○包括関係を知る
 
私が一般的な書籍のメニュに入れているようなトレーニング、表情筋や柔軟運動などは、実際にステージを行っている人から見たら、その場で行われているくらいのことなのです。
 
ただし、せりふや歌の場合は、2時間あったとしても、20分ぐらいしか声を使ってないことも多いのです。これを実質60分くらいになるようなことを課すようにしたいと思います。
役者や歌手が、特別なトレーニングやレッスンを経ないで、できるのは、日常の中で、そういうものがうまく取り込まれて行われてきたケースであるからです。
 
外国人を見習いなさいというのもそういうことです。幼い頃から、自分がどういう表情をしているのか、その効果を知り、意識的にその表情を動かして、人に伝えるようなことが、基本です。歌や言葉でも、そういうことをしてきたという人は、15歳になるまでに、そうでない人の10年以上のキャリアを積んだことになります。
 
その上で、その人の潜在能力、身体能力や感覚が、そうした世界に合っているかどうかというのが、問われると思います。しかし、少なくとも、それだけの経験があれば、鼻歌で歌っても、音を外しませんし、セリフをいっても、役者のように魅力的に聞こえるかもしれません。
 
○伝えるトレーニングのセッティング
 
日常、人前でセリフや歌うときに、本気で伝えようとと行っていたら、表情はポーカーフェイスになるわけないし、体の動きも直立不動はありえないでしょう。そうした動きの中で、習得していけばいいのです。
 
たとえば、日頃、プールに行って、いろんな種目で泳いでいる人は、腕や首を回したり、股関節を使ったりします。こういう人が、ヴォイストレーニングのマニュアルで、ラジオ体操のような動きを行う必要はありません。それ以上の動きを行っているからです。
 
トレーニングというのは、日常生活に加えた強度を与えなければなりません。毎日5キロ歩いてる人が、500メートル歩いたからといって何のトレーニングにもならないのです。
ところが、1ヶ月入院していた人にとっては、少し歩くだけのことでも結構なトレーニングになるでしょう。
そのセッティングを間違えては、トレーニングも何もあったものではありません。
 
そのラジオ体操も、本当にゆっくりと自分の体のチェックというようなことできちんと使うのであれば、それは、とても有意義なトレーニングになります。要は形でなく内容なのです。
 
どういう意味で、何を目的として、チェックしたり、養ったりしようとしているかということです。そういうことをきちんと考えるために、いろんなメニュを使ってみたり、そういう考え方やプロセスを学んでみるというのは、とても意味のあることだと思います。
ですから、こういうことを伝えているし、こういうことによって、自分を省みていただきたいと思うのです。
 
トレーニングにおいては、日常的なところ、あるいは自分の舞台やステージ、あるいは自分のトレーニングで、動かさないけど、必要なところということをチェックして行うことになります。
水泳では、立ったり走ったり、跳ねたりするような筋肉はあまり使わないと思います。そうであれば、そういった部分を別にトレーニングする必要があります。
 
○メンタルでの限界
 
今や、ヴォイストレーニングで、最も必要とされることは、実際のところはメンタルトレーニングになっています。音声クリニックもそうかもしれません。いや、もしかすると、今の日本のお医者さんなどの需要の半分以上はそういったものかもしれません。
 
保険がきいて安いからです。専門家に不調を話し、それは、こういう病気、この薬でよくなるといわれると、安心できるからです。安心するとそれだけで、よくなることが多いのです。それでは、どこまで必要性があったのかどうかはわかりません。
 
声自体は、精神的な状態で左右されてしまうので、結果を分かりにくくしています。心の状態が安定すると、声が出やすくなり、そうでないと出にくくなるからです。緊張しただけでも声は出にくくなります。レッスンでは、トレーナーとレッスンに慣れるに従い、声がよくなるものです。
 
失声症などというのは、喉自体に器質的な問題がなく、メンタル的な問題で起きるのです。機能的な発声障害、これは、音声クリニックなどから、私のところに患者が回されてくる代表的な例です。ほとんどは、メンタル的な問題だからです。
 
○科学的の欺瞞
 
もう一つ、科学的な根拠のあるヴォイストレーニングを求める傾向が非常に強くなってきているのを感じます。つまり、理屈や理論で納得できないと、トレーニングで信頼が持てないというような人たちです。こちらの方が問題が大きいかもしれません。
 
大体、「科学的に」という人は、科学の何たるものかがわかっていないことが多いものです。まして、科学的に効果があるようなことを言っているトレーナーには、よく似た傾向があります。
 
ある面においては、科学が、効果的に使えるのは確かです。スポーツの分野は、その成果を取り入れて、とても発展しています。
それに対して、芸術分野になってくると、かなりの制限がかかります。むしろ、そういったものにとらわれたことによって、大きく変質されかねません。
 
個性やオリジナリティーというものが元になっていますから、もともと万人に共通という科学とは相性が悪いのです。それを理解しない人たちにとっては、科学、もしくは、科学的という言葉が、福音のようになってきているのを感じます。
 
医療のように、元の状態に回復するという点では、できるだけ多くの人に同じような効果が出た方がよいから、科学というのは、使えます。医者に行って、検査をして、症例によっては手術をした方が、ヴォイストレーニングよりもずっとよいケースがあるのは、わかります。ポリーブは、代表例です。しかし、それ以外は、むしろ、よくないケースが多いのです。平均モデルを基準にとるからです。この問題については、今までもたくさん述べてきていますので、そちらのほうを参考にしてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?