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秩序は常に人の想像からつくられる──『サピエンス全史(上)』読書感想文

人類が狩猟採集民であった時代については、あまり目新しい情報はないなと思って読んでいたが、農耕の幕開けからの解釈が俄然面白かった。
下巻はまだ読んでいないが、すでに入手しているので必ず読もうと思う。

サピエンスは虚構を発明する能力のおかげで、しだいに複雑なゲームを編み出し、各世代がそれをさらに発展させ、練り上げる。

第2章 虚構が協力を可能にした

第2章「虚構が協力を可能にした」の章段のまとめとして、このようなことが書かれている。「サピエンスの特性である虚構(=想像上の秩序)を生むの能力から生まれたゲームとは何なのか」というところから、この本のメインストーリーが幕を開ける。

進化ではなく悲劇

第5章は、狩猟採集生活から農耕生活へと人類が“発展”したことは誤算だったという見方がとてもユニークだと感じた。

永続的な村落に移り、食糧の供給量が増えると、人口が増加しはじめた。放浪の生活様式を放棄したおかげで、女性は毎年子供を産めるようになった。赤ん坊は幼くして離乳させられた。お粥で育てることができたからだ。畑では、少しでも多くの働き手が必要とされた。だが、食べさせてやらなければならない人が増えたので、余剰の食物はたちまち消えてなくなり、さらに多くの畑で栽培を行わなければならなかった。人々が病気の蔓延する定住地で暮らし始め、子供が母乳より穀類を摂取する量が増え、どの子供もしだいに数を増す兄弟姉妹と競い合ってお粥を手に入れようとするうちに、子供の死亡率が急上昇した。
〜 中略 〜
時がたつにつれて、「小麦取引」はますます負担が大きくなっていった。
皮肉にも一連の「改良」は、どれも生活を楽にするためだったはずなのに、これらの農耕民の負担を増やすばかりだった。
〜 中略 〜
もくろみが裏目に出たとき、人類はなぜ農耕から手を引かなかったのか? 一つには、小さな変化が積み重なって社会を変えるまでには何世代もかかり、社会が変わったころには
かつて違う暮らしをしていたことを思い出せる人が誰もいなかったからだ。そして、人口が増加したために、もう引き返せなかったという事情もある。 〜中略〜 後戻りは不可能で、罠の人口は、バタンと閉じてしまったのだ。

第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇

著者は狩猟採集型から農耕型への生活の変化は、今日から見れば人類の文明の進化を後押ししたように見えるが、章名にも明らかなように実際は大きすぎる犠牲を伴った「悲劇」だったのだと言う。

私たちは豊かさや安心を享受しており、その豊かさや安心は農業革命が据えた土台の上に築かれているので、農業革命は素晴らしい進歩だったと思い込んでいる。だが、今日の視点から何千年にも及ぶ歴史を判断するのは間違っている。
それよりもはるかに典型的な視点は、一世紀の中国で、父親の作物が収穫できなかったために栄養不良で死にかけている三歳の女の子のものだろう。はたして彼女はこんなことを言っただろうか? 「私は栄養失調で死んでいくけれど、2000年後には、人々はたっぷり食料があって、空調の効いた大きな家で暮らすだろうから、私の苦しみは価値のある犠牲だ」

第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇

一定の犠牲を前提とするのが進化というものだという論調もあるだろうが、その犠牲がどれほど甚大なものであったのかは、過去に生きた不特定多数の人間ではなく、今目の前にいるかもしれない一人の人間に焦点を当てると身に迫ってわかりやすい。

世界は想像上の秩序の上に成り立っている

中盤からは文明社会が発達するステージに入り、いよいよ「サピエンスの特性である虚構の能力から生まれたゲームとは何なのか」というテーマに本格的に切り込んでいく。

著者はアメリカ独立宣言を引き合いに、人間社会の自由や平等という概念は「想像上の秩序」によって成り立っているのだと主張する。この例が非常にウイットに富んでいる上にわかりやすい。

我々は、以下の真実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利をその造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。

オリジナルの独立宣言

これを生物学的に正しく言い換えると下記の通りになる。

我々は、以下の真実を自明のものと見なす。すなわち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる。

生物学的に正しい独立宣言

やり口は超皮肉っぽいが、自由や平等というものが想像上の概念であることを著者は批判しているわけではない。ただし「想像上のものであることを自覚しておくべきだ」という主張が強烈に匂う。
人間は想像上の概念でもって“良い社会”をつくる一方で、“望ましくない社会”を擁護する理由にもそれを適用することがあることを忘れてはならないと。

ハンムラビなら、ヒエラルキーについての自分の原理を同じロジックを使って擁護したかもしれない。「上層自由人、一般自由人、奴隷は本来異なる種類の人間ではないことを、私は承知している。だが、異なっていると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。

第6章 神話による社会の拡大

私たちが生きていて「自然だ」と感じる概念は、生物学的なところではなくこのような想像から生じているというのが著者の見解だ。

キリスト教や民主主義、資本主義といった想像上の秩序の存在を人々に信じさせるにはどうしたらいいのか? まず、その秩序が想像上のものだとは、けっして認めてはならない。社会を維持している秩序は、偉大な神々あるいは自然の法則によって生み出された客体的実体であると、つねに主張する。
人々が平等でないのは、トマス・ジェファーソンがそう言ったからではなく、神がそのように人々を想像したからだ。自由市場が最善の経済制度なのは、アダム・スミスがそう言ったからではなく、それが不変の自然法則だからだ。

第6章 神話による社会の拡大

ここからは私見も交えるが、「[A]は、神あるいは自然の法則によって成った」というロジックのAは、その時々の状況によってすり替えられる。感情に訴ることができ論理的に破綻しないストーリーさえ作れれば、どんな[A]であっても大衆は「自然由来もしくは神だったら仕方ないか」と──そう思い込まされることによって社会は「調和を保たれる」。

文化は不自然なことだけを禁じると主張する傾向にある。だが生物学の視点に立つと、不自然なものなどない。可能なことは何であれ、そもそも自然でもあるのだ。自然の法則に反する、真に不自然な行動などというものは存在しえないから、禁じる必要はない。
〜 中略 〜
実際には「自然な」と「不自然な」という私たちの概念は、生物学からではなくキリスト教神学に由来する。「自然な」という言葉の神学的意味は、「自然を創造した神の意図に一致した」ということだ。

第8章 想像上のヒエラルキーと差別

私たちの社会にはびこる(あえてこういう言い方をします)「想像上の秩序」は、おそろしいまでに自然に、文字や空間などの形で人間の社会の中に物理的に存在し、また、私たちの欲望を上手にくすぐり満たしながら共同体の統一的主観として存在する。常に崩壊の危険をはらんでいるはずなのに、非常に強固なものに見える。
しかし、実際にはそれが“つくられた神話”であることを、私たちは忘れてはいけない。


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