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《「まずは母語だろ!!(ꐦ°᷄д°᷅)」…そう思いつつも、英語の授業で得られたものがあった話/おやこで通う小学校㉒》

付き添い登校生活を送る中で、びっくりしたことの1つが
英語の授業があることだ。
何でも、3年前の2020年度から、小学校でも必修となったらしい。

個人的には正直、完全に不必要だと考えている。キッパリ
論理的思考力の獲得が不十分な段階で、母語以外の言語を習得することには意義が見いだせない気がするどころか
逆効果なんじゃない?とすら思う。
(脳の専門家じゃないから分からないけど。)

ましてや、息子である珍獣・兄に関して言えば、まだ日本語の読み書きがほぼ出来ない。
その彼が英単語の発音を促されている光景は、もはやシュールである。( ゚д゚)

と、英語の授業の意義に対しては懐疑的、というより噛みつきまくりなわたしだけど
その授業自体は、実は結構楽しい。(゚∀゚ノ)ノキャー
日系アメリカ人の、おそらくネイティブスピーカーの先生がやってきて
クイズや音楽を取り入れつつ、楽しい雰囲気で授業を展開してくれるのだ。

先生は、大きな声でハツラツと喋りながら、子どもたちに質問を投げかける。
それに対して

「アッポウ!」
「ゴリーラ!!」

1年生から6年生まで大体10人くらいの子どもたちも、元気よく答える。

分かる人ー?との問いかけには、

「はいはいはいはい!!!」

数人が、我先にと手を挙げる。

…珍獣・兄は、そもそも音楽系やノリの良い雰囲気が苦手なので、終始不機嫌だけれど ー_ー
楽しそうな子どもたちの様子を見ていると、単純に
いい光景だなあ…( *´灬`* )フォフォフォ と、ちょっと嬉しくなってしまう。

同時に、「皆で同じことを学ぶ」のも
学習の在り方の1つとして、大事なんだな
…と、改めて思うようになった。

𖡼.𖤣𖥧𖡼.𖤣𖥧𖡼.𖤣𖥧𖡼.𖤣𖥧𖡼.𖤣

先日、「緩やかな個別学習の、「何」がいいのか?/おやこで通う小学校⑱」で書いたように
わたしは珍獣・兄との支援級での日々を通じて、小グループを含む個別学習の良さを実感するようになった。
そういう学びの在り方が、他者との競争に基づいた自己評価ではなく
自分軸で物事を考える習慣に、つながるのではないかと思う。

でも、それだけじゃなくて
「共に学んでいる」実感を持てる程度の規模感の集団の中で
一体感を得ながら学習する時間も、ひとの意欲に火をつけるものなんだな…
…と、英語の授業を見ていて感じた。
もちろん、それが合う子もいれば、合わない子もいるだろうことを前提として。

わたしは、自分の子どもの頃の体験から
『一斉授業』の形式に、ずっと違和感を抱いてきた。
その違和感の原因は、『皆が同じ内容を学ぶ』ことよりも
『授業を受ける側に一切の主体的要素がない』ことの方に、あったのかもしれない。

何にしても学びは本来、内容もやり方も多様だ。
公教育でも、子どもたちが、自分に合った学びを選べる時代が来るといいな。

……いや、「いいな!(*ノω・*)テヘ!」なんてそんな悠長なことを言っていたら、珍獣・兄はあっという間に卒業を迎えてしまうだろう。

わたしに、何が出来るかなあ…。うーん。

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