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短編小説を読む──芥川龍之介「羅生門」(1)

 超有名短編小説を丁寧に読んでいきたいと思う。全数回予定。


羅生門

第一段落

ある日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしょうもん)の下で雨やみを待っていた。

芥川龍之介「羅生門」

 下人は雨宿りをしていた。なぜ下人が羅生門にいたのか、読み返すまで忘れていた。下人というのは身分が低い人のこと。この言葉が使われているだけで、身分というものが存在した時代だということがわかる。まあ、比喩かもともこの時点ではとれる。ちなみに今はもう羅生門は無い。

 そもそも羅生門とはなにかを、改めて確認してみる。

羅城門とは?
 羅城(らじょう)とは,古代都市を取り囲む城壁のことで,羅城門は羅城に開かれた門です。中国では外敵防禦のため堅固な羅城が築かれましたが,日本では藤原京以来,京城の南面の羅城門の両翼のみに造られただけで,周囲には簡単な垣(土塁)と溝が設けられていたようです。
 平安京の羅城門は,朱雀大路(すざくおおじ)の南端に建てられた都の正門です。読み方は,呉音で「らじょうもん」,漢音では「らせいもん」となります。「らいせい門」(『宇治大納言物語』『世継物語』) や「らせい門」(『拾芥抄』)とも呼ばれ,「らいしょう(頼庄)」(『延喜式』)や「らしょう」(『拾芥抄』)は俗称とされていましたが,中世には観世信光(かんぜのぶみつ)作の謡曲「羅生門」の影響からか「らしょうもん」が一般化したようです。

https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi05.html

第二段落

広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗(にぬり)の剥(は)げた、大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路(すざくおおじ)にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみえぼし)が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

同上

 この後出てくるが、当時の京都は荒廃していたので、門の手入れがされていなかった。だから塗りが剥げているし、虫がとまっている。べつに塗ってあっても虫はとまだろうが、塗りが剥げた上に虫がいると荒廃している感が増す。でもきりぎりすって風流な感じもある……。
 あと、人を「市女笠や揉烏帽子」と服装で表現しているのが面白い。まあとにかく下人以外誰もいないということ。

かぶり笠の一。菅 (すげ) などで編み、中央に高く巾子形 (こじがた) という突起を作った笠。市女が使用したのでこの名を生じたが、平安中期ごろには上流の女性の外出用となり、男子も雨天のときなどに用いた。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B8%82%E5%A5%B3%E7%AC%A0/

薄く漆を塗って柔らかにもんだ烏帽子。兜 (かぶと) などの下に折り畳んで着用した。引立 (ひきたて) 烏帽子。梨 (なし) 打ち烏帽子。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%8F%89%E7%83%8F%E5%B8%BD%E5%AD%90/

第三段落

何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風(つじかぜ)とか火事とか饑饉とか云う災(わざわい)がつづいて起った。そこで洛中(らくちゅう)のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸(こり)が棲(す)む。盗人(ぬすびと)が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。

同上

 第二段落の状況の説明になっている。自然災害が起こって都が寂れてしまった。そして仏像や仏具なんかはありがたいものではなくて薪として即物的に使われるようになってしまった。まさに神も仏もない状態。都の中心である洛中がそんな有様だと、端っこの羅生門なんて当然修理してもらえない。
 荒れているといろんなモノが住む。まず最初に「狐狸が棲む」というのがいい。人間以外の動物が住み着いて、その後盗人、最後に死人が運ばれてくる。盗人を人じゃないと言うと怒られるかもしれないが、人の道をはずれたか、そもそも人じゃないか、人じゃなくなったものが集まってくる。そりゃ、暗くなったら誰も近寄らない。昼間だって近づきたくない。
 ところで、注目したいのは二文目の「旧記によると」という部分。後で地の文に「作者」が登場するが、ここの「旧記によると」は「作者が旧記を参照したところ」という感じ。

第四段落

その代りまた鴉(からす)がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾(しび)のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻(ごま)をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄(ついば)みに来るのである。――もっとも今日は、刻限(こくげん)が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞(ふん)が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖(あお)の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰(にきび)を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。

同上

 そんなやばいところだから、人は来ないけどカラスが死体をついばみにやってくる。昼間は鴟尾だから屋根の飾り、その周りを飛んでいる。夕焼けをバックにすると胡麻みたいにはっきり見える。でも昼間でもはっきり見えそうだけど。なんで夕方にことさら「はっきり見えた」と書いているのか? 青空を背景にするより、赤い空を背景にしたほうが、黒いカラスの存在感が増すからかもしれない。
 残念ながら(?)今は時間が遅くてカラスはいない。だけどカラスの糞が手入れのされていない石段の上に点々としている。カラスが食べていたのは死人の肉だから、これはなかなかグロテスクだ。下人はそんなことより、自分のほっぺの面皰(にきび)が気になっている。それどころじゃないのか、ぼーっとした人物なのかはまだわからない。

第五段落

作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微(すいび)していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申(さる)の刻下(こくさが)りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日(あす)の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。

同上

 さっき第三段落のところで言及した「作者」が登場して、下人の状況を説明してくれる。下人は早い話が、不況の余波で首にされて、困っていた。しかも降り続く雨という空模様で、まさに泣きっ面に蜂だ。
 明日の暮らしのめどもたたないくらいだから、狐狸や盗人や死人どころではない(そうか?)。
 あと、ようやく今がいつだったかも「平安朝」という言葉でわかる。平安時代だったんですね。それにしても「平安朝」と言った刀で「Sentimentalisme」は痺れる。深刻な状況なのにちょっと笑ってしまう。

次回に続く


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