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別に好きってほどじゃないけど

こんな私だって、いつもいつも田口のことばっかりだったわけじゃない。

正直、この人のことを書くかとても迷った。
何故なら、この人はマッチングアプリで出会った人だから。
こんなにアプリが普及した今でも、「ネットの出会いなんてその程度」とか「それってただの出会い系でしょ?」と水を差す人がいるから。
だけどまぁ、そういう出会い方も含めて書き残しておきたいなと思える人だったから、書こうと思う。

私は彼の名前を知らない。
ラインを見ればわかるんだけど、どうにも私は「名前」に無頓着なところがあるので、今の今まで気にしたことがなかった。

彼はsyrup16gのアルバムジャケットをプロフィール写真にしていた。
たったそれだけで私は興味を持って、一言目に「電話しようよ」と送った。
すぐに「いいよ」と返ってきて、ラインを交換した。

とても落ち着いていて、少し気怠そうな雰囲気のある声をしていた。
マッチングアプリは前日の夜に酔った勢いで友達と始めたらしく、使い方も何もわからない…と言っていた。

仕事が忙しくて毎日つらい、何もする気にならない、友達もあまりいない、5月に別れた彼女と7月まで同棲していて、未練というよりは家に誰もいなくなった虚無感で苦しい、と話してた気がする。
付き合う女の子は精神的に不安定な子ばっかりだと言う。
これだけ書くとすごく病んでる人みたいに思えるけど、実際話してるとよく笑う人で、ちょっと私を小馬鹿にして冗談を言ったりしてきて、なんだか不思議な人だった。

映画や漫画が好きでたくさん持ってる、と突然カメラをつけて部屋を見せてくれた。
さっきまで他人だった私に部屋を見せてくれるその警戒心のなさに、こういうところに女の子は引っかかるのかもしれないと思った。

私と電話してる最中ずっと後ろで音楽を流していて、なんだか失礼な人だな…と思ったりもしたけど、音楽を流さないと部屋の沈黙に耐えられないらしい。

私がsyrup16gの話をすると、流している曲をシロップに変えてくれたりして、まぁなんだか優しい人なんだなとも思った。
「私今の部分の音だけでわかるよ、解散ライブの動画でしょ」と言うと、当たっていたらしく、結構驚いていた。

私がタバコを吸うペースと同じくらい、彼もタバコに火をつける音がしていた。
そして時折、呼吸と同じくらいの感覚で深いため息をしていて、苦しいんだろうなというのが伝わってきた。

お昼に始めた電話も気付けば19:00を過ぎていて、お互いお昼ご飯も忘れて話していたので、
もういい加減ウーバーイーツを頼んで各自ご飯を食べましょう、ということになった。

彼はハンバーガーが大好きらしく、マクドナルド・バーガーキング・ロッテリアのウーバーイーツのみで毎日生活してるらしい。
なんてジャンキーな食生活。

その日の私はというと、どうしてもカレーライスが食べたくなり、CoCo壱やゴーゴーカレーに目星をつけていたものの、
いつものごとく、やっぱり自分で作った方が早いし安いよな〜と決めかねているうちに20:00を過ぎてしまい、
緊急事態宣言の波を受けて、ウーバーイーツで頼めるお店はどんどん締まっていってしまった。

そんなこんなで、好きなカレーのタイプの話になった。
彼は、ドロドロのカレーが好きらしい。
「お店で食べられるのはシャビシャビのばかり。そんな話するからドロドロのが食べたくなってきた。どうしてくれるの?」と小さく笑っていた。

話は彼のジャンキーな食生活に戻り、最近の私は料理をするのにハマってるということを話すと、
「じゃあバイトで雇うからうちにご飯作りに来てくれない?交通費は俺が負担するし、+時給も発生する。俺と一緒にご飯が食べられる特典もあるよ」と言い出した。
私は「いやいやいや」と軽く受け流していたけど、彼はどうやら本気だったらしく、「時給いくらなら雇われてくれる?1500円くらいはどう?希望があったら合わせる!」と押してきた。
「いや、時給は30円とか?料理作るの楽しいから無銭でもいいんだけどなあ」と答えると、「そういうところが男をダメにするんだよ…」と笑われた。

実はその日、三連休の初日だったこともあり、誰とも会わずにお休みを消費するのはもったいないと思っていた私だったので、
実際、彼の家に行ってカレーライスを作ってあげるのは全然アリで、前向きに検討していた。
だけど私のその意図が彼にあまり伝わっていなかったらしく、
「だめかな…あなたが好きそうな映画もたくさん持ってるよ!お金払うし、もうお風呂入ってすっぴんで来てくれても大丈夫!スマホ触っててもいいし…」と念を押された。

私が渋ってたのは、自分のお腹の空き具合。
もうお昼も夜も食べてないのに、ここからお風呂に入って彼の家まで向かっていたら、食事にありつけるのは日付を跨ぐ頃。
それまで耐えられる自信がなかった。

すると彼は、「あ、もうちょっと押せば来てもらえそう…どうですか。うちでご飯作るの大変だったらウーバー頼んでおこうか?」と打診されたけど、
「それまで待てないから私は今ご飯食べて、そのあとお風呂に入って、そっちに向かって…で3時間近くお待たせしてもいいのなら全然行くよ!」と伝えると、
「それでもいいよ!俺は待てるから」と返された。
じゃあ電話は一旦切って夜ご飯食べるね、と伝えると、
電話の切り側に、「あ、俺セックス目的じゃないから。そこは誤解されたくない。ただ、この部屋に一人でいるのが苦しいから、誰かと一緒にご飯を食べたい…」と言われたので、
結局私はスープだけを飲んですぐお風呂も終わらせて、身支度だけは時間をかけて、家を出た。

終電で出かけるなんて、田口と初めて会った時以来だったから、なんだか悪いことをしてるような気にもなりつつ、これから帰っていく酔っ払いたちがたくさん乗り組んでくる電車に揺られながら、彼の最寄り駅まで向かった。

彼は駅まで迎えにきてくれた。
イメージと違ってかなり細身で身長が高かった。

コンビニでおつまみとお酒とタバコを買い込んで、彼のアパートに向かった。

彼女と同棲するために借りたという部屋はとても広くて、そしてとても散らかっていた。
所狭しに置かれた棚には、いかにもサブカル好きというチョイスで映画のDVDや漫画がびっしり詰まっていた。
彼女と別れた理由は、
片付けができない子で、結婚は難しいと思ったから、
って言ってたからこの人は綺麗好きなのかと思ってたけど、
普通に汚かったと思う。
キッチンにはお酒やエナジードリンクの空き缶やタバコの吸い殻がたくさん残っていた。

おつまみを電子レンジで温めて持ってきてくれた。
待っている間、テレビではandymoriのライブ映像がずっと流れていた。
私あんまり小山田壮平得意じゃないんだよな…と思いつつ、他にすることもないのでそれを眺めていた。
「気遣わないでスマホ触っていいよ」と言われたけど、ただでさえ他人の家に上がることがない私は余計にそわそわしていてなんだか落ち着かず、大人しくテレビを眺めていた。
音量設定が狂っていて、耳が痛かった。

あんまり箸が進まない私を見て、「そんな少食アピールしなくても大丈夫だからたくさん食べな」と笑ってきた。
そういうことじゃない。
ただほんとに他人の家に上がることに慣れていなくて、あまり落ち着かないのが本音だった。

そんなのだからお酒もほとんど飲めないまま私は眠たくなってきてしまった。
彼は、「最近こればっかり見てる」とアニメを流し始めた。
社会人の闇をポップに描いたアニメらしい。

私はストーリーに全く共感できなくて、ただのギャグアニメだと思って時折笑って観ていた。
「笑える余裕があるんだね…俺なんて自分を見てるみたいで気が重くなるよ」と言ってきた。

5話目くらいまで見て眠くなってきた私は黙ってコンタクトを外して、人をダメにするソファにぐったり横たわった。
「もう寝る体勢じゃん…」と困惑された。

なんだか申し訳なくて必死に起きていた。
いっそのことそのまま寝落ちできてしまえば良かったのに、やっぱり落ち着かない私は眠ることさえできなかった。
そんな私を見かねて、「もう寝よう…」と言ってくれた。

この歳になっても、この瞬間はやっぱり緊張する。
眠れるのかな、一緒に寝たりしなきゃいけないのかな、もしかしてそれ以上を求められたりするのかな…
どうせ自分が断るのはわかりきってるけど、それでもやっぱり返事に悩んでいた。
だけど彼の提案は予想とは全く違い、
「ベッドとソファどっちがいい?好きな方選んでいいよ。俺はどこでも寝れるから…」と。
えっ…
いや、それでいいんだけど、それがありがたいんだけど、こうも何も手出しされないとそれもそれで悲しくなり、私ってそんなに色気ない女だったのかな…とちょっと落ち込んだりもした。

結局私はソファを選び、彼がベッドで寝ることになった。
ソファはリビングにあって、ベッドは寝室にあった。
完全に別々の部屋。
「明日俺があんまりにも遅くまで起きなかったら起こして。それか好きな時に帰っても大丈夫だよ。おやすみ」と言って彼は寝室に向かっていった。
私はさっきまで他人だった人の、初めて上がる家の、だだっ広いリビングで一人ぼっちにされて、
なんなんだこれは…と思った。
だからようやくスマホを開いて、田口に返信した。
こういう時のために持ち歩いてる睡眠薬を飲んで、無理にでも寝ることにした。

朝が来るのはすぐだった。
ソファの目の前の大きな窓から陽の光が差し込んできて、まぶしくて目を覚ました。

9:30

薬は完全に切れていて、二度寝は難しそうだった。
お酒が抜けきらない気だるい体を持ち上げて、仕方なくスマホを触ることにした。
それから部屋中をぼーっと見渡して、
なんだか勘違い女みたいなことしてるよなとは思いつつ、あまりに散らかった部屋を少しだけ片付けてあげた。
前日使ったお皿やコップも洗って、キッチンも少しだけ綺麗にしておいた。
こんなことされたら嫌がるかもしれないとは思ったけど、あの人ならなんだか怒らなさそうという気もした。

それからまたぼーっとしているとインターホンが鳴った。
寝室は玄関から一番近い場所にあったから音で起きるかなと思ったけど、一向に起きてくる気配はなかった。
だから仕方なく私が玄関を開けた。
ネットショッピングの段ボールだったらしく、「ありがとうございます」と受け取って扉を閉めた。
なんだか同棲してるみたいだなと思った。
そのまま帰ろうかとも思ったけど、黙って帰るのなんてなんかワンナイトした次の日みたいで嫌だなと思ってそのまま居座ることにした。

11:00になっても彼は起きてこなかったから起こしに行った。
彼の枕元には大きめの目覚まし時計が8個も乱雑に置かれていてぎょっとした。
「もう11:00だよ」と小さい声で肩を揺さぶると、彼は「11:00…まだ…」と言いかけて体を起こした。
たぶん、まだ11:00なのに…って言いたかったんだと思う。
土下座みたいな姿勢でベッドの上で固まったまま彼は深くため息をついて、「朝が来るのが一番苦しい」とつぶやいた。
「なんでこんなにアラームあるの」と聞くと、「ここまでしないと起きれないから…」と困った顔で言っていた。
大変そう…
毎朝死んだ顔で起きる彼を想像して、なんだか可哀想に思った。

彼はリビングに入ってすぐテレビをつけて、またライブ映像を流し出した。
それからキッチンに行き、「洗い物…気遣わないでもよかったのに。ありがとう…」と言ってくれた。
私がまたぼーっとテレビを眺めていると、「コーヒー飲む?」と聞いてきた。
彼女と別れた寂しさのあまりお高いコーヒーメーカーを買ったらしい。
(どういうこと…?)
「なんか入れる?牛乳でもキャラメルでもあるよ…氷もたくさん」

冷凍庫を開けると冷凍食品がたくさん入っていて、私が氷を見つけられないでいると、彼が笑っていた。
冷蔵庫にはお酒がたくさん入っていて、その中から私は牛乳とキャラメルを取り出した。
「結構入れないと味変わんないから好きなだけ入れていいよ」と言われた。
「なんかスタバの店員になった気分」と私がぼやくと、「似合ってるよ」と言ってくれた。
彼はキッチンのパイプ椅子に座って換気扇の下でタバコを吸いながら、私がコーヒーを作っているところを眺めていた。

よくわかんないけど、ちょっとだけどきどきした。

私がキャラメルをしまおうとすると、「それだけでいいの?」と聞きながら彼は串でグラスを混ぜた。
それから、「マドラーなくて…どうぞ」とグラスを渡してくれた。

私がまたテレビを眺めながらコーヒーを飲んでいると、さっき私が受け取った段ボールを開け出した。
ZOZOTOWNで買ったお洋服らしい。
そして、シャツを取り出して「これいくらに見える?」と聞いてきた。
全然わかんなかったけど、気を遣って「8500円くらい!」と答えたのに彼はがっかりしていて、「2万だよ…ちょっと…!」って。
困惑した。これがに、にまん?!!
そして彼はまたキッチンのパイプ椅子に座って、シャツのボタンを開けようとした。
「これ硬くて全然開かない…2万もしたのに…」と苦戦してたので、私が代わりに開けようとした。
開かなかった。
2万のボタンが開かないシャツ…

なんとかボタンを開けた彼はリビングを通り過ぎてクローゼットに向かった。
それからラックにかけてあったコートを私に渡してきて、「これはいくらだと思う?ちゃんと考えてよ…」と。
私はまた気を遣って、「3万くらいかな?」と答えた。
彼は「6万もしたのになあ…」と悲しそうに笑った。

それから、これいいでしょ!っていろんなTシャツを見せてくれた。
正直よくわかんなかったし、彼のファッションはあまり私の好みではなかったけど、
うん可愛い!刺繍もしっかりしてて!とフォローしておいた。
彼は満足そうに笑ってくれた。
それからハンガーを取ろうとして、私が午前中に片付けたハンガーたちに気がついたようで、「ここもやってくれたんだ。ありがとう。彼氏が甘える理由がなんとなくわかるよ」と言われた。

私はまたテレビに目を向けた。
彼は天気がいいことに気づいて、気怠そうにしながら洗濯物をし始めた。
洗濯機の音を聞きながら、コーヒーを飲んで、テレビから流れるsyrup16gを聴いて、
なんだか久しぶりに穏やかな時間を過ごしている気がした。

私はDVDの棚の前にしゃがみ込んであれこれ物色した。
浅野いにおのマンガがそろっていた。
だけど、『うみべの女の子』だけ見当たらなかった。
田口が観に行こうって誘ってくれた映画の原作。
「うみべの女の子ないんだね」と聞くと、後ろの方で「ないんだよね…」と返事がした。

私はキッチンのパイプ椅子に座ってタバコを吸うことにした。
彼はDVDの棚から『花束みたいな恋をした』のDVDを取り出してきて、私に渡した。

「これ観たことある?」
「私、結局観なかったんだよね。観たら絶対苦しくなっちゃうのわかるから、勇気が出なかった」
「俺、この映画に出てくるのと同じ椅子持ってんだよね。菅田将暉のおそろい。あっちのベランダに置いてある。そっちでタバコ吸うこともある。感動しちゃった」
「そうなんだ!これ、舞台もこのあたりなんだね。自分のこと重ねちゃうね」
「最初俺は観てなかったんだよね。外出るのがしんどいから。元カノは友達と観に行った。俺は別れてから観て、椅子同じことに気づいた。もっと早く観ておけばよかったよ…」

私は彼にDVDを返して、彼はDVDを棚に戻して、
静かになった洗濯機から衣類を取り出して、大きな窓を開けるとベランダに干し出した。
「これ、この椅子がさっきの菅田将暉と同じ椅子。ここでもタバコ吸っていいからね…」

そしてキッチンに戻ってきて、彼は立ったままタバコを吸い始めた。
パイプ椅子は既に私が占領していたから。
「様になってるよ」と言ってくれた。
タバコ吸ってる姿が様になる…いいんだか悪いんだか。

リビングのテレビからsyrup16gの『生きているよりマシさ』が聞こえてきた。
もう前日から今まで狂ったように彼はこの曲のMVを流していた。
「超絶ラブソングだよね…
『もう君と話すには俺はショボ過ぎて
簡単な言い訳も思いつかないんだ
戸惑いの奥にある強い不信感を跳ね除ける力が残ってたらいいのに
君といられたのが嬉しい
間違いだったけど嬉しい
誰かの君になってもいい
嬉しい』
最高のラブソング」
って私が早口で語ると、彼は笑いながらのんびり答えた。

「そんな聴き方してるのあなただけよ。サビの『死んでいる方がマシさ』が重要な歌でしょ」

私は相変わらず、人をダメにするソファに座ってテレビのsyrup16gを眺めた。
洗濯物を干し終わった彼に「午後は何するの?」と聞かれた。
あ、そうだよね、私帰らなきゃいけないんだな…と思った。
なんだかいつまでもここにいられる気がしてたけど、そんなわけなかった。
早く帰って欲しいってことなのかな?とも思った。
「何にもない…」と答えると、「やっぱり暇なんじゃん…」と言われた。

彼はというと、午後から物件を探しに行くらしい。
キッチンに向かい、不動産屋さんに電話し始めた。
「このあと13:00に行きます。はい、今は1LDKに住んでて…彼女と同棲してたんですけど別れてそのままで…家賃14万一人で払ってて…仕事は自転車で行きたいので今と同じエリアで…」とかなんとか丁寧な説明をしてるのが聞こえてきて笑いそうになった。
こんなに気怠そうなのに、意外とアクティブじゃんとも思った。

帰り際、彼は玄関まで見送ってくれた。
申し訳なさそうに頭を下げて、「ごめんね、もっとコンディションが良かったら…」と謝ってきた。
「何のこと?」と聞くと、「お酒全然飲めなくて…」って。
別にいいのに。
もともと私お酒飲んで盛り上がる気なんてなかったし。
私は「ありがとう、じゃあね」と言って、家を後にした。
「またね」って言えなかったし、「またね」って言ってくれなかったな…

気持ち悪いくらいいいお天気だった。
お酒がまだ抜けきらなくて、頭がぼーっとしてる気がした。
だからなのか、駅を通り越してしまった。
行きは一瞬だった気がしたのに、帰りはとても遠い気がした。

何日か経って、「来月引越すことになった」と連絡が来た。

あぁ、もうあのお家に行けないんだな…
私結構好きだったのにな…

彼女と過ごした部屋にバイバイするんだな、
最後にその家に上がったのはその子じゃなくて私なのを忘れないでねって思った。

私は普段田口からの連絡を待ちわびるあまり、スマホの通知は基本全部切っている。
通知が鳴った時は必ず田口からだってわかるように。
だけど久しぶりに私は通知をオンにした。
彼のラインだった。

スマホが鳴った。
あの人だ…!と思ってラインを開くと、それは田口だった。
なんだ田口か…って思った。
田口からの連絡に初めてがっかりした。

わかんないけど、たぶんもう彼に会うことはない気がする。
会えない気がする。
あの場所に行ってももういないんだなぁ。

猫みたいにくるくるした茶色の流れる髪とか、キャラに似合わず三つも入れてるタトゥーとか、聞いてるこっちが苦しくなるくらいのため息とか、困ったように笑う表情とか、なんで生やしてるのかわかんない似合わない顎髭とか、
もう全部見れないんだなあ。

別に好きってほどじゃない。
いくら私だって、一回会ったくらいで人を好きになったりしない。
だけどたぶんあのあとも会っていたら、
おそらく、そうねおそらく、好きになってたと思う。
そんな気がする。

あーあ、あの時無理にでもsyrup16gのチケット押し付けてたら、また何か違ったのかもしれないのに。

私ってばsyrup16gのライブに縁がないのかな。
そういえば昔、田口と一緒に行く約束してた時も、当日になって結局残業だからいけないと断られたんだったな。

私、ちょっとだけ苦しい。
あの24時間のうちにあなたがどれだけ聴いていたかわからない、syrup16gの『生きているよりマシさ』を聴くのが苦しい。
ほとんど何も知らないのに、名前すら知らないのに、たった一日しか過ごしてないのに、
まるで彼のことを歌ってるみたいな歌詞がすごく苦しい。

私が大好きなsyrup16gになんてことしてくれてんの。
11月のライブでこの曲聴くのちょっとだけいやだなあ。

どこかで元気でやっていてね、私当分は代田橋には行けません。
初めてあなたと会ったあの駅には降りられそうにありません。

#エッセイ #恋愛

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