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一人で作る狂気

先日、新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』の公式ポスターなどが公開されたが、11/11に公開だという。このタイミングは年末の映画商戦の一番手的な感じだが、今回も興行収入100億円は固いだろう。

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新海誠といえば、『ほしのこえ』の時は一人でアニメーションを作成していて、2013年の『言の葉の庭』までは間違いなく閉じた人気だったが、何故か確変を起こした。
一人でアニメーションを作成する、というには狂気であり、小説や絵画などとは根本的に異なるものだ。映画はあまりにも巨大な産業になってしまい、1本に複数名〜数百名、或いは1000人を超えるときがある。

そして、あくまでも商業作品であるから、大勢に受けいられる無難さ、論理性などが必要となる。
アート映画などは、これを振り切って一部に的を絞る場合もあるが、基本的に誰もが経験したこと共感できることや、理解しやすい物語で構築する必要性があるわけだ。

一人で制作をしている新海誠は完全にその逆をいっているはずだが、川村元気と組んだことや、彼の視ているあの透明な都市の煌めく光景が、多くの人には美しいものだと感じられたのだろう、今は国民的な作家である。

同じように昨年は『ジャンクヘッド』で、これはそこまで一般的にはまだまだ浸透していないが、たった一人の七年の狂気で作り上げた作品もある。

然し、一人で作り上げる狂気で間違いなく昼の世界でフィーバーを起こすことはないであろう作品に、『地下幻燈劇画 少女椿』がある。

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これは1992年の作品で、約1時間弱の映画だが、原作は丸尾末広の『少女椿』である。見世物小屋に売られた少女みどりちゃんが巡る地獄めぐりを描いた作品で、この作品はYou Tubeで普通に観ることが可能なので、ご存知の方も多いかと思われる。
然し、一人で造るにしても、今作は常軌を逸しており、その監督である原田浩監督はプロとしてのノウハウを持っていたとしても、伝説的な仕事をなし得ている(この作品は厳密には完全に一人ではないが、やはり普通の複数で制作したアニメとは根本が異なる、一人の情念が産んだ堕慧児おとしごである。)
この映画の初めのシークエンス、工場町で花を売るみどりちゃんの光景を観ていると、同じく恐ろしい漫画である、『四丁目の夕日』が思い出される。『四丁目の夕日』はウルトラにヘビーな現実の昭和を描いているので(『三丁目の夕日』が昭和幻想ならば、これもまた、暗黒昭和幻想で、現実的ではないだろうが)、読むのには注意が必要であり、優しい人は心を破壊される怖れがある。

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また、見世物小屋といえば、私の場合は、京都の東寺で行われる弘法市で見かけたハブとマングースの闘いや、看板に肉食魚と書かれて紹介されていたピラニアの展示を思い出す。
どちらも、大したことはない。然し、見世物的ではあったし、幼い心におどろおどろしいものだと思えた。

さて、この『少女椿』のセルフリメイクが『トミノの地獄』であり、原案となる歌は西條八十の作品で、声に出して読み上げると不幸なことが起こるという、曰く付きのものだが、この『地下幻燈劇画 少女椿』はそもそもが不幸の釣瓶撃ち的な作品であり、美しいシーンも多々あるが、子犬が踏み潰されて眼球が飛び出すシーンなどは、到底一般家庭に受け入れられることは永久にないだろう。

つまりは、金儲けも、そして世俗な名誉も端から期待していない、そういう作品である。これは重要なことである。
彼の作品に『二度と目覚めぬ子守唄』という30分弱の自主制作アニメがあり、ある種、丸尾末広というアーティストの世界観という安全性が担保された『少女椿』を遥かに超越した暗黒世界と暗黒感性がある作品である。
この作品もYou Tubeで視聴可能である。

これも極々少数で制作されており、凄まじい狂気を感じるが、然し、恐ろしいのは、2030年公開予定で、『極彩色肉筆絵巻座敷牢』という作品の制作を進めている、ということである。

しかも上映時間は3時間近くを予定しており、凄い作品だなぁと思うが、2030年というのもなかなか気の長い話であるが、然し、『FINAL FANTASY15』は、ヴェルサスとして発表されたのが2006年のGWであり、発売されたのが2016年11月なので、10年かかっているので、こんなものかもしれない(スクウェア・エニックスは延期地獄なので普通ではない)。

この、一切ブレることのない世界観と制作姿勢こそが、真の芸術家に大切なものなのであり、賞狙いの承認欲求の塊や、世渡り上手な作家たちには永久に到達できることのない高みである。

『地下幻燈劇画 少女椿』は音楽がJ・A・シーザーだが、J・A・シーザーといえば天井桟敷であり、寺山修司である。
寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』という映画は初めて観た時は面を食らったが、あの映画を解体するかの如き作品、演劇性・土着性の氾濫は、初めはなかなか消化するのに手間取った。寺山修司は3本の映画を監督しているが、そのどれもがあまり家にソフトとして置いておきたくない。

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で、その寺山修司の見世物小屋的な世界観が『地下幻燈劇画 少女椿』にも流れているわけだが、その寺山修司の影響を強く受けているのが最近話題の園子温である。
園子温は寺山修司から青森という土着性を抜き、キリスト教的なモチーフが横溢した世界観を描いている。彼の初期先には彼の育った愛知県豊川に関しての言及が多く、この場所が彼にとってのトポスとして作品世界観の一部になっている。

園子温もまた、初めは詩人として活躍し、そこからアングラな活動『東京ガガガ』を経て、映画監督としては2008年の『愛のむきだし』からブレイクスルーを果たした。
たくさんの人間が絡む映画において、園子温はまさに人を巻き込む才能があり、初期作や、『東京ガガガ』時代の『BAD FILM』など大量の人員を撮影し、映画を作り上げる様は、先述する一人で映画を作る人種とは異なる。

然し、初期作のタイトルの『俺が園子温だ!』のように、自身のビジョンを絶対的に具現化していくその様や、詩人としての感覚の『自転車吐息』などのタイトルの美しさなどは、やはりどこまでも一人の感性を持ってして作品を織り上げていくアーティストの眷属の一員であることに疑いようもない。

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『BAD FILM』は傑作であり、その辺りが2010年代前半までの作品にも結実し、この辺りの作品がキャリアピークと思われるが、最近は報道で渦中の人になっており、どうなっていくのだろうか。

園子温はその著作において、寺山修司の経営する人形桟敷館の1Fのカフェで、寺山修司と会ったことを書いている。然し、二人は顔見知りでもないので、客もいない店内で、憧れの彼に声をかけることが出来ず、然しインパクトを残そうと無銭飲食を思い立って、店を出ると、それをわかった上で寺山が、「ありがとうございました」的なことをいい、それがすごく粋だった、的なことに書いていた。
本の中で、一番印象に残ったエピソードである。

とにかく、藝術作品とは本来は一人の視た幻想の具現であり、その具象された作品を観て、共感し感動した者がいて、更に波及していく。
故に、賞というのはその共感者からの賛辞なわけだが、然し、何故か共感してもらうために他者を見て藝術を作ろう、と順番が逆転する人が多くいる。あくまでも作品が先である。
そして、共感は得るために必要なのは媚であって、商売であって、それらは藝術では一切ない。



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