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童話の天文学者

誰しもが子供の頃、世界中の童話を読んだり、或いは読み聞かせてもらったりしただろう。

永遠の少女と呼ばれた矢川澄子は、世界童話体系を読み耽り、そうして文学の道へとより深く入っていったそうだ。
挿絵がとても美しいのが大好きだったそうだ。


童話、とは文学の究極の形である。テーマ、美しさ、教訓、共感性、そして儚さと憧憬、その全てが込められている。

矢川澄子の読んでいた世界童話体系は大変に物量も多いが、こういう本を子供に買い与えることは、誠に素晴らしいことだ(そして、独善的でもある)。
矢川澄子はそのまま少女が年をとっただけで、少女のままであると言われていたが、彼女はお兄ちゃんこと、澁澤龍彦と結婚して、澁澤の破綻に付き合わされて、そのまま結婚生活も破綻した。

澁澤龍彦は色々調べると分かるが相当の糞野郎であり、松山俊太郎曰く、普通の付き合いの人には礼儀正しいというので、使い分け、というよりも、親しい人には甘えて暴君になるタイプなのであろう(そして、人と会う時にだけサングラスをかけていたとバラされていた。自己PRが上手いのである。松山俊太郎には結構ディスられていた)。

男前だが暴君。

矢川澄子は自殺しているが、澁澤との二人の写真には、童話の世界の登場人物のような清らかさ、天真爛漫さが溢れている。

結局は二人の結婚はお兄ちゃんと妹の結婚ごっこの遊びは破綻してしまった、と御本人も言っていたが、ごっこ遊びは、少年少女にだけ、童話の世界の中にだけ許されている、子供らの特権だからである。

お兄ちゃんと妹のカップル

イーハトーブ童話を書いていた宮沢賢治は37歳で亡くなったが、無名のまま死んだ。今は、彼の童話に多くの人が親しんでいて、たくさんの絵本になっていたり、漫画や文学、映画や歌曲にも影響を与えている。

無論、彼にも文学的野心はあったから、自費出版などしたりして、製作を続けていたのだろうが、生前の喝采、は終ぞ浴びることはなかった。

私の感覚では、道力で表すと(『ワンピース』のCP9の時の戦闘力の指標)、現代の作家さんの平均が道力3000だとすると、三島由紀夫が道力16000、谷崎潤一郎が道力18000、川端康成が道力19000、くらいのイメージ、最近だと車谷長吉が道力17500、古井由吉が道力13000、大江健三郎が15000、西村賢太が9400くらいのイメージである(全て主観なので、お遊びだと思ってください)。

道力システム好きだったんだが…。

そんな中で、宮沢賢治は道力42000くらいの化け物、という感じである。
それは、単純な文章力ではなく、明らかに他とは異質の世界を内包しているからである。

『童話の天文学者』は稲垣足穂の短編小説だが、三島由紀夫はタルホを指して、「稲垣さんは生活に何の期待も希望も抱いていなかった」という、金言を書いている。
これは逆説的に、生活に期待を抱いている人の書く文学、文章は、翼がない、ということである。
人間関係に終止した、人間の文学である。然し、タルホや賢治は、フェアリー時代、つまりは少年少女であった頃の文学にこそ重きを置いている。
そして、それこそが童話なのである。

川端康成の作品に、『抒情歌』というものがある。霊的な力を持った女性が、恋をして報われなかったその思いを延々と語り、輪廻転生という物語の美しさに焦がれて、けれども、来世で結ばれるよりも、名もなき草花に生まれ変わって、胡蝶が運ぶ花粉によって結婚させてもらう方がよほどいい、とか言ってる私は、結局哀しい人間の性から逃れられないのね……、的な作品である。

この川端康成の『抒情歌』でもまた、人間という鎖に繋がれてしまっている。自分でもそんなことを言っているように、あくまでも人間心理がこの小説の抒情性を皮肉にも輝かせている。
『抒情歌』自体は大変に美しい短編小説で、川端康成には『水晶幻想』というシュルレアリスム小説もあるが、これは意識の流れを書いた作品で、靄に包まれたような(後年の魔界文学の萌芽)作品だが、『抒情歌』も同じ様に、意識の流れのような作品ではあるが、明確に悲恋を通奏低音として敷いておりロジカルに組み立てられているため読みやすい。

このような、人間感情、というものこそが『小説』に求められるものであり、菊池寛系列、即ち芥川賞のような作品に必須であり、童話の天文学者とは真逆のものなわけである。

人間が書けていない、というのがこの手の文学関連でよく言われることであり、つまりは、感情、生活、関係性、この手の人間至上主義(文学上)を上手く掬い取るのが肝要なわけである。

人間が書けていない、まぁ、それは逆説的には、作者が意図するところを読めない御前様方にはよ、人間を書くことは更に不可能だろうけどなあ(西村賢太風)ってなもんであるが(本当に大きなお世話だよ!)、つまりは、人間を書くためには、人間関係、大人の世界、人間の生活にフォーカスし、その上で、コロナとかウクライナ侵攻などの人間社会の抱える問題を武器として使う必要性があるわけだ。

童話の天文学者は、生活とは無縁でなければならないという。そういうときこそ、人は童話の天文学者になれるのだと。

私は識っている。童話、には既に人間が描かれている。小説、と呼ばれる小細工を弄したものとは異なり、既にそこには人間がありのままに描かれている。
然し、童話は大人には取り扱いが難しい。ごっこ遊びは、大人になると破綻してしまう。
だからだろうか、生活とは無縁でなければ、童話は産み出せないのかもしれない。



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