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平成の文豪

本の価格が上がっている。恐ろしいことだ。一昔(とはいえ5年くらい前)は1,500円くらいの本でも2,000円くらい取る、そんな感じである。
どこもかしこも値上げである。だからこそ、より一層書店パトロールを強化しなければならない。そして、常にアンテナを張り、買わずに買った気になる、いうなれば、『美味しんぼ』における辰さんの如く、試食を高級レストラン代わりに使う、あの心意気で書店を回らなければならない。

さて、先日伊集院静氏が亡くなった。私は氏の作品に詳しくはないが、昭和の文豪、というよりも、平成の文豪もまた、遠くなっていく。脚本家の山田太一氏も亡くなられて、私でも名前を存じ上げている巨星が鬼籍に入られている。

昭和の文豪。昭和、という63年間の時代の濃密ももちろん重要だが、平成、という30年間の長きもまた大変に重要であり、既に平成初期の作品は完全に埃を被っている始末である。

こういうのは、基本的に、活躍した時代、というのが該当するものなのだろうか、車谷長吉なんか、確かに昭和時代から彼は作家だが、不遇をかこち、大成したのは平成10年に直木三十五賞を受賞してからだ。平成8年からの連載作品の『赤目四十八瀧心中未遂』がそれに当たる。
なので、車谷長吉は平成の文豪だろう。西村賢太も、昭和感があり、実際昭和を経ての作品群だが、芥川賞受賞が平成23年であり、もう、これは完全に平成の文豪である。

と、いうよりも、何を持って文豪というのか、剣豪みたいなもので、文章の達人ならばそれでもう文豪なのではないか。然し、そういう文豪感は昭和で終わり、石原慎太郎、安部公房、大江健三郎、中上健次あたりが最終文豪ラインの気がするが、まぁ、村上春樹も文豪なのだろう。

現代の作家はパンチが弱い、的に言われたりする。軽い、重みがない、内容が薄い、メッセージ性に乏しい、などと。
然し、そのようなことは昔から(実際に昔の文芸誌でさんざん書かれている)あるので、今の作家も令和の作家たちが主戦力になる頃には、崇め奉られるだろう。いや、まぁ、つまりは今生き残っている文豪たちこそ蠱毒を生き抜いた者たちであり、濾過された美しい水なのだろう。

そもそも、私は小説家では車谷長吉が一番巧いと思っていて、小説に限れば、谷崎潤一郎、川端康成、車谷長吉、という並びでこの三人が凄いと感じている(それから津原泰水)。

この中で頭2つ抜けて川端は詩情が豊か。だけれども、物語構成力が低い。
谷崎は全体的に一番上手く絢爛にまとめるが、深い思想などない。車谷長吉は負のオーラが凄まじく、けれども冷静な筆致で職人細工のように理性的な文章を書く、そんな感じ。

車谷長吉は2015年に亡くなってもう8年も経つわけだが、もっともっと読まれてもいいと思う。然し、気が滅入る内容が多すぎるため、どう考えてもメジャーにはなれないのである。

小説を学びたい人は車谷長吉の本を読んで欲しい。本当に巧すぎるし、いや、その巧すぎるのが鼻につくが、然し、文章を論理立てて物語、というよりも小説、を編み出すその職人めいた技には感嘆するばかりである。

然し、西村賢太もそうだが(西村賢太は過剰なサーヴィスをするが)、文章の巧い人間というのは、基本的には読者に寄り添わないのである。
読者を見て書く、読者に向けて書く、ということを標榜している指南もあるが、それは報告書で充分であり、わざわざ小説において阿る必要性はない。

文章の巧い人間は、サーヴィスが恥ずかしいのだ。割り切って、相手の喜びのために自分を曲げる、そのようなことは出来ない。何故ならば、文章の巧い人間は明晰であり、自尊心が高く、相手を見下しているからだ。
ここで相手に合わせる、そのような営業マンスタイルにギアチェンジして文章を書ける人は、思想がないか、お金のためであり、結果、それは利己心の文章になる。それは結局翻っては読者を馬鹿にしているのだ。
然し、そういうことが出来る人は金も設けられる。売文家、文章を売りさばくことが出来るわけだから。


そして、結句私の言いたいのは、車谷長吉の文章は意外とわかりやすいよ、ということであり、今書いてきたこととは全く関係のない話なのである。
とにかく、平成の文豪、車谷長吉の本をもっと多くの方に読んで頂き、滅入って頂きたいところ。


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