【映画】「月」感想・レビュー・解説

重い物語だ。そして確実に、観る者に刃を突きつける作品でもある。この問いから逃れられる人は、多くはないだろう。ほとんどいないと言っていいかもしれない。

何せ、究極的には、「『人』とは何か?」と問われているからだ。

映画の舞台となるのは、「何らかの理由で意思の疎通が図れないほど重度の障害を持つ者たちの支援施設」である。「支援施設」とは言うが、その環境は劣悪である。入所者の家族もほとんどやってこないところだから、一部の職員は入所者にいじめのような振る舞いをしている。暴力や監禁も日常茶飯時である。所長は恐らく、「税金を掠め取れる」というだけの理由でこの施設を運営しており、入所者のことなど気にも掛けていない。施設を訪れるごく僅かの家族も、施設の待遇が酷いことは理解していながら、「ここが無くなったら他に行く場所がない」と、この施設に頼らざるを得ない厳しい現実を語る。

そんな環境で働く、様々な背景を持つ職員を中心に描かれる物語である。

さて、この映画は、実際に起こった障害者殺傷事件を題材に発表された小説『月』(辺見庸)を原作としている。そのような物語だからこそ、当然(という言い方はどうかと思うが)、「障害者など生きている価値がない」という主張をする人物が登場する。

その人物の主張は、「意思の疎通が不可能な存在は『人』ではないのだから、社会のために殺した方がいい」というものだった。つまり、「あまねくすべての障害者」を対象としているのではなく、その人物が「心が無い」と判断した者たちに向けられているというわけだ。

このような思考を、「自分には無関係だ」と感じる人もいるだろうと思う。しかし、映画を観れば理解できるが、そうはいかないのだ。何故ならここに、「出生前診断」の話が関係してくるからである。

映画の中で、「出生前診断で、子どもに障害があると分かった場合、96%が中絶を選ぶ」というようなセリフが出てくる。これはまさに、「障害を持つ子は自分たちには不要だから産まない」という選択だろう。別に、その選択を非難したいとかではまったくない。ただ、先ほど提示した「意思の疎通が不可能な存在は『人』ではないのだから殺していい」という考えは、容易に「障害を持つ子は自分たちには不要だから産まない」という判断と重なるはずだ。

もしも、「意思の疎通が不可能な存在は『人』ではないのだから殺していい」という考えを否定するのであれば、「障害を持つ子は自分たちには不要だから産まない」という決断もまた非難されなければならないはずだ。少なくとも、映画ではそのように問いを突きつける。

このように、この映画で問いかけられていることは、現代社会に生きる多くの人に直接的に突きつけられているものでもあるのだ。

さて、この辺りの事柄について、まずは僕自身の考えを書いておこう。

僕は「意思の疎通が不可能な存在は『人』ではないのだから殺していい」とは思わない。ただし、「意思の疎通が不可能になったら殺す」という決断が許容される状況はあるはずだと思う。それは、「意思の疎通が不可能になる前に、自らその意思を示していた場合」である。

例えば僕は、仮に自分がこの映画で描かれるような障害者になった場合、「絶対に殺してほしい」と思う。誤解しないでほしいが、これはあくまでも「僕」の話であり、「映画で描かれるような障害者は死ぬべきだ」などという主張ではない。僕はそういう状態では絶対に生きて痛くない、というだけの話であり、この点について僕以外の人がどう判断しようが、僕は関わるつもりはない。

さて、僕は「意思の疎通が取れなくなったら殺してほしい」という意思を、意思の疎通が取れなくなる前に示している。この場合、「意思の疎通が不可能になったら殺す」ことが許容される”べき”だと僕は考えている。

そしてこの話は、僕にとっては、「障害のあるなし」には正直関係ない。というのも、僕にとってより問題だと感じるのは、「『生きたい』と思えなくなった人間が死ぬことを許容するルールが存在しないこと」にあるからだ。映画で問われていることは、その問題のかなり例外的なケースだと僕は考えている。

安楽死のように、「自らの意思で死を選ぶ制度」が存在することが望ましいと僕は考えている。しかし、今そのような制度は存在しない。そして、そのような制度が存在しないからこそ、「意思の疎通が取れなくなった者が生きているべきかどうか」みたいな議論が生まれてしまうのだと思う。もし日本社会に安楽死の制度があり、さらにすべての人間に、「もし意思の疎通が取れない状態になったら生きたいか、それとも死にたいか」をあらかじめ決めさせる仕組みがあれば、この映画で提起されるような問題はそもそも起こり得ない。「死にたい」を選択した人は殺されるわけだから、「意思の疎通が出来なくなった障害者」は全員、「そうなる以前に『生きたい』という意思表示をしていた人物」だからだ。となれば、「意思の疎通が不可能な存在は『人』ではない」みたいな考えが出ようが、「だから殺していい、とはならない」と言える。意思の疎通が出来なくなる前に意思表示をしているからだ。

みたいに僕は考えるのだが、まあきっとこの意見はあまり納得や共感を得られないだろう。問題の本質をズラしているとか、問題そのものに真正面から向き合っていなくて卑怯、みたいな評価になりそうだ。

まあ、現状では日本で安楽死制度が作られる予感はまったくしないので、「起こり得ない状況を設定して議論をズラしている」というのは、まあ確かにそうかもしれない。ただ僕は、やはり人間の権利として「死を選ぶ自由」はあるべきだと思っている。つまり、その点に関して言えば、現状は「不当な状態」だと僕は判断しているのだ。だから僕としては、「卑怯」みたいな批判が来るとしても、ちょっとあまり納得は出来ない。

ただ、1つ明確な事実は、「僕らが生きている現実において、『現実解』を見つけなければならない」ということだ。僕は、故・立川談志の「現実は正解だ」という言葉が好きなのだけど、確かに「現実が間違っている」などとゴチャゴチャ言っても仕方ない。安楽死制度はないし、意思の疎通が不可能な障害者はいるし、そういう中で何が「現実解」なのかは皆で考えなければならないだろう。

そしてそうなるとやはり、「沈黙」せざるを得ないなぁ、という感覚になってしまう。

映画の随所で浮かび上がるテーマの1つが「見て見ぬふり」である。登場人物たちは様々な理由から、「現実の暗部」を「見て見ぬふり」する。せざるを得ない。そして映画はさらに、「『見て見ぬふり』しているのは、お前たちもだぞ」と、観客も巻き込んでいく。映画で示唆されていることは、究極的に言えば、「みんなが『見て見ぬふり』しているから、この施設でこんな酷いことが起こってしまうのだ」みたいなことかもしれない。直接的にそう主張するような場面は出てこないが、そう受け取るのが自然なように感じられる。

映画での描かれ方を踏まえつつ、もう少し突っ込んでみよう。

もしも、「障害者」のことを「必要」だと感じるのであれば、それは何らかの行動となって現れるはずだ。例えばこの映画では、聴覚障害者の恋人を持つ人物が登場する。その人物は、その聴覚障害者のことを「必要」だと感じたから、「告白する」というような行動を取ったのだろう(まあ、映画ではどちらからアプローチしたのかの描写はないので、あくまでも想像だが)。

そして逆に言えば、「障害者」に対してなんの行動も取らないのであれば、それは「不要」と判断していることになるはずだ。僕は障害者手帳を持っている友人が数人いるが、彼らは映画で描かれるような重度の障害を持っているわけではない。そして実際僕は、重度の障害を持つ人に対して特に行動を起こしていない。だから彼らを「不要」と判断していることになるし、それは認めざるを得ないと思う。

さて、僕らは、「その後」について考えることはしない。つまり、「社会のほとんどから『不要』とされてしまった人が、社会の中でどうなっていくのか」を想像することはないということだ。「どこかの誰かがどうにかしてくれているんだろう」みたいに思うことさえないだろう。

そして、そんな想像することさえない「その後」の1つが、この映画で描かれている施設というわけだ。だから結局のところ、僕らの「見て見ぬふり」がこのような施設やその待遇を生み出していると考えるべきなのだと思う。

何度でも書くが、僕はやはり「安楽死制度」を用意すべきだと思う。しかし、現に今はその制度がないのだから、そういう中で取り得る「現実解」は何かと考えると、やはり答えが見つからず沈黙せざるを得ないと思う。そもそも、僕を含めた「みんな」の「見て見ぬふり」が強すぎて、「問題そのもの」が意識されることさえ無いのだ。そういう中で、社会の中で一定の合意を獲得する「現実解」など存在しようがない。

だから、「税金を掠め取る」みたいな動機を持つ人物しか「現実解」を提示出来ないのだし、そういう酷い環境であると理解しながら「ここに預けるしかない」と考えることになるのである。

そのような非常に難しい現実が、映画の中でど直球に描かれていく。

『見て、何かしましたか?』

「障害者」に限らず、様々な状況で「見て見ぬふり」をしているすべての人間に、この「見て、何かしましたか?」という”刃”が突きつけられる。狂気的な言葉を吐き続ける人物から「ずるい」と指摘される状況にモヤモヤさせられつつ、同時に、「確かに『ずるい』と言われてもしかたないな」とも思わされてしまう。

「正常でいられる方が異常ですよね」と言われるような環境では、「普通」という言葉があっさりと歪んでいく。その「狂気」がリアルに描き出されていく。

メインで描かれるのは1組の夫婦である。堂島洋子は、元ベストセラー作家だが、ある時期から小説が書けなくなってしまい、何か働き口をと、森の中にある重度障害者施設での非正規雇用を見つけた。夫の昌平は、妻のことを「師匠」と呼び、創作活動に勤しんでいる。2人には辛い過去があり、2人ともまだその当時のことを上手く乗り越えられないでいる。

障害者施設では、作家志望の陽子や、入所者に自作の紙芝居を披露するさとくんと仲良くなった。職員の中には、入所者に酷い扱いをする者もいる。そんな現実を目にしながらも、彼らはなんとか真っ当に仕事をしようと努力する。

洋子はやはり小説が書けないまま、施設での仕事に疲弊していく。昌平は夢を追いつつ、どうにか仕事を見つけ働き始める。陽子は小説の投稿が上手く行かず、家族との関係もままならない。さとくんは入所者に暴力を振るう職員から馬鹿にされるような扱いを受けており……。

とにかく、役者たちの怪演が光る映画だったと思う。メインどころを演じる宮沢りえ、オダギリジョー、二階堂ふみ、磯村勇斗は、それぞれなりの狂気的な状況に置かれているのだが、それぞれがその世界における「リアル」を打ち出していたと思う。頭がおかしくなりそうな環境・状況の中で、どうにか理性を保ちつつ、それでもどうにか前に進んでいこうとする者たちの葛藤を、見事に演じていた。

特に、宮沢りえとオダギリジョーが演じる夫婦の関係性はなかなか一筋縄ではいかない感じがあって、それを2人の雰囲気が非常によく描き出していた。さらに、2人の過去や現在進行系の決断が、障害者施設での状況にオーバーラップしていく構成もまた、よく出来ていたと思う。

あとは、一応誰なのかには触れないが、最終的に障害者を死傷することになる役を演じた役者もまた、その怪演が見事だった。まさに「狂気」が漂うような雰囲気だったのだけど、冷静に放たれる言葉とのギャップもまた恐ろしく、また同時に、その主張を真っ向から否定するのは難しいと感じさせる雰囲気も見事に打ち出しており、なんというのか説得力が凄かった。

なかなか凄まじい映画を観たなという感じだった。

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