【映画】「TALK TO ME トーク・トゥ・ミー」感想・レビュー・解説

これはなかなかムチャクチャな話だったなぁ。正直に言えば、僕には作中の登場人物の行動はまったく共感できないのだが、しかし、公式HPを読んで、共感できないのはきっと、僕が40歳のオジサンだからなんだろう、と感じた。なんというのか、本作で描かれているのが「若者のリアル」なんだとしたら、ホント、怖いなぁ、と思う。

本作では、「SNSで話題になっている”90秒憑依チャレンジ”」に若者がのめり込む様が描かれていく。手法は大分異なるが、ざっくり「こっくりさん」みたいなものだと思ってもらえればいいだろう。霊を降ろして、身体の中に取り込むというもので、「90秒以上霊が入った状態だと危険」ということから「チャレンジ」という名前になっている。

さて、僕はYouTubeでもTikTokでも同じだが、「流行っていることを皆で真似してやる」ということの面白さが全然理解できない。まあ100歩譲って、「アイスバケツチャレンジ」のような「寄付を募る」みたいな目的があるなら、まだ理解できなくもない。しかし最近は、InstagramでもTikTokでも、「流行っているダンスを皆で真似して踊る」みたいな動画が人気らしい(「らしい」と書いているのは、僕自身が実際にそういう動画を見ているわけではないから)。

僕はひたすらに、「流行ってるものを真似して、何が面白いんだ?」としか思えない。正直、まったく意味不明だ。例えば僕が、何か表に出るような仕事をしていて、「こういうダンス動画を載せればバズる」とか言われても、絶対にやりたくない。「興味がない」だけではなく、「可能な限り関わりを持ちたくない」というレベルで好きじゃない。

ただ、若い人の間でそれが当たり前のように受け入れられているのであれば、そこには何かがあると考えるべきだろうと思う。

今も時々、バイトテロみたいな動画が世間を騒がす。直近だとやはり、回転寿司店での動画が記憶に新しいだろう。SNSが出てきたことで可視化されるようになったわけだが、しかし、こういうアホみたいなことをする奴は、SNSが広まる以前からいたはずだ。単に、SNSによって「目につく」ようになっただけである。

しかし、SNSが広まったことによる直接的な影響もあるだろう。それが「人付き合いの難しさ」だ。本来的には「人と人を容易に繋ぐ」ためにSNSが生み出されたはずなのだが、結果としてSNSは「人と人をあっさりと遠ざける」ツールになってしまっている。

僕がよく考えることではあるが、SNSが広まる以前は、自分の動ける範囲内の人間関係をどうにかすれば良かった。もちろん、そこにも様々な苦労が起こり得るし、決して簡単だったわけではないが、SNSが広まったことで「どうにかしなければならない関係性」が無限に広がってしまった。今までだったら、距離の制約があって関われなかった人たちとも関われるようになった。このことはもちろん、「身近に話せる人がいない」という人には大いなる恩恵をもたらしただろう。SNSはたぶん、いわゆる「コミュニケーションが得意ではない人」にとっては、結構プラスのツールだと思う。

しかし、元々コミュニケーションに苦手意識を持っていなかった人たちにとっては、むしろマイナスに働いているのではないかと思う。学校、塾、スポーツクラブなど、物理的距離の近さで関われる人たちだけに自分の全リソースを割けば良かった時代とは違い、今はネット上の無限とも言える人たちにも自身のリソースを割かなければならないからだ。

まあ、そりゃあ発狂するわな。コミュニケーションが苦手で遮断することを選んだ人は、SNSによって「本当に通じる人」とだけ関わるという選択を取れるが、コミュニケーションが得意で関わる人すべてと良き関係を築きたいと考えてしまう人には、SNSはハード過ぎる。

で、「SNSを含めた全方位にリソースを割くのなんか無理だわ」と気づいた人たちが、「人付き合いの難しさ」を実感させられるようになっていったのではないかと思う。

それが、まさに「今」なんじゃないか、と。

さて、この前提をベースに「SNSで流行っているものを真似する」という行動を捉え直してみよう。色んな理由はあると思うが、「リソースの省エネ」という発送も結構あるんじゃないかと思う。

コミュニケーションが得意な人は、SNSを含めた全方位に良き関係を築きたい。しかし、そのためのリソースは凄まじいものになって、普通に考えたらやりきれない。ただそこに「SNSで流行っているもの」があると、少し状況が変わる。「SNSで流行っている」のだから、「SNS上の関係性の全員」に対してそれは有効だと言える。しかも、「ダンスを踊る」みたいな場合、「リアルの世界の誰か」を混じえて動画を投稿するのが自然だ。となれば、同じコンテンツで「リアルの関係性」の方にも有効だと言える。

これはつまり、「『流行っているコンテンツに関わる』というリソースの割き方によって、かなり広範囲の関係性に対して存在感を示せる」ことになるというわけだ。意識的なのか無意識的なのかは分からないが、「SNSで流行っているものを真似する」という行動の背景には、こういう感覚があるんじゃないかと思う。

ただ一方で、これは諸刃の剣でもある。というのも、「少ないリソースで広範囲に存在感を示している」ということが、見て明らかだからだ。問題は、「相手が自分に対してさほどリソースを割いていない」と伝わってしまうことにある。つまり、「SNSで流行っているものを真似する」という行動が広まれば広まるほど、「相手が私にリソースを割いてくれた」という感覚は一層薄れていってしまうことになる。

これによって、人間関係がより希薄になっていく、という現象が起こっているんじゃないかと思う。SNSというのは、なかなか厄介な存在である。

公式HPに、監督のインタビューが載っている。本作では「手の彫像を握り、『トーク・トゥ・ミー(話したまえ)』と口にすると、目の前に霊が見える」という設定になっている。そして、「手を握るという設定にしたのは何故か?」と聞かれた監督が、「『孤独』や『人との繋がりを強要されること』についての映画だから」みたいな回答をする。もちろんそこには、「SNSの繋がりばかりで、リアルな関係が希薄である」というような示唆も含まれているだろう。

映画の中では若者たちが、「降霊術」を何度も繰り返しては馬鹿騒ぎしている様が描かれる。正直僕には、何が楽しいのかさっぱり理解できない場面だが、たぶんその場にいる人たちにとっては、「みんなと一緒に何かをしている」ということこそが大事であり、そしてその対象が「SNSで流行っていること」であるという事実が大事なのだろう。中身は、何でもいいわけだ。そしてなんというのか、「そういう場だとしても、1人よりマシ」みたいに考えているのだとしたら、若い人たちがとても「可哀想」に見えてきた。作中で描かれるのは、パーティーなんかで騒いでるリア充っぽい若者たちだが、「そう見える」というだけで実質は違うのかもしれない。

「降霊術」を見て騒いでいるのも、「『楽しんでいる』という風に振る舞わないと、場に相応しくないと思われるかもしれない」と考えているからかもしれないし、もしそうだとしたら、その場にいるほとんどの人間が、実際には楽しんでいないのだと思う。先程の話に少し繋げると、「リソースの省エネ」みたいなことをやり続けている人ほど、「特定の誰かにリソースを割く」みたいな経験が少なく、リアルの関係でどう振る舞うのべきなのか悩んでしまうみたいなこともあるだろう。

ホントに、大変だなと思う。

本作は、ホラーホラーしている、「分かりやすいホラー」みたいに見える作品だし、実際に単にそういう作品だと受け取る人も多いとは思うけど、僕にはむしろ、「こういう関係性しか築けないSNS時代の困難さ」こそが主題として描かれているように思うし、まさに「現実そのものの方が降霊術よりもホラーである」みたいに受け取るのが正しいんじゃないかという気がする。

物語で言えば、とにかく主人公のミアが徐々に崩壊していく様がとても興味深い。その崩壊の過程を映像的にもかなり上手く描き出していて、特に後半、ミアが鏡のある部屋で”襲われた”後の展開など、凄いことするなという感じだった。

さらに、ラストの展開もとても上手い。本作においては、まさにそれがラストシーンとして相応しいと、恐らく誰もが感じるだろう終わり方で、見事だったと思う。

あと、作り方的に、「日本のホラー映画」っぽさを感じた。以前僕は何かで、欧米と日本のホラー映画の違いについて読んだことがある。欧米のホラー映画は「予想できないことが起こる」。つまり「『わっ!』と驚かせるような怖さ」というわけだ。しかし日本の場合は、「『こういうことが起こるよねたぶん』と想像させて、その通りのことが起こる」みたいな怖さなのだそうだ。確かに、なんとなくイメージ出来るんじゃないかと思う。

そして本作は、先の分類で言うなら日本のホラー映画っぽい作りになっているなと思う。そういう意味でも、日本人には合うような気がする。

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