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殴られても介護する。家族ってなんだ?

父は、いわゆるDVだった。けれど、それがDVだったと気付いたのはつい最近、40歳を目前にした時だった。そんなものなのだろうか?就寝前に毎晩尻を洗う。介護が必要になった老人は尿路感染しやすい。きれいになった尻を拭いて新しい紙パンツに替えながら、昔をふと思い出す。ドラマの筋書きみたいに。そして、あれはDVだったんじゃないかとしみじみ自覚する、そんな感じ。

年末年始のお休みも、今日で終わり。今日は12時過ぎまで起きられなかった。昨日は、叔母夫婦が正月の挨拶に訪ねてきたり。おせちやうちの新年の定番ローストビーフももうなくなるので、今日の分の夕飯を仕込んだり。年末年始の介護で溜まったタオルや洗濯物を洗って干したり。
昨年は26日まで仕事だったので、27日から3日までちょうど1週間の年末年始休暇だった。28日に仕事で出ている人もいるから、スマホでメールは返したりしたけれど。
普段も、平日は1日〜2日、それと週末はなるべく実家の介護を手伝いに帰っている。私は実家から自転車で20分くらいのところに住んでいる。離婚してから1年くらいの仮住まいのはずだった。しかし、最愛の祖母の死や父の痴呆介護、姉の病気などある種天災的な事象の数々に見舞われたことにより、「家族」という概念に大きな地殻変動が起きたため、まだしばらくはこの暮らしを続けるつもりでいる。
父のDVは子供たちに対してだけだった。母に手を挙げようとすると、「私に手をあげたら離婚するわよ!」と金切声で叫ぶ母の若かりし頃の姿を思い出す。父のスイッチはいつ入るか分からなかった。
電気系の仕事をしていて、中東の方へよく仕事で長く留守にしていた。クリスマスにもいなかったことが多いらしい。私の記憶は曖昧だ。お土産で買ってきてくれたバービー人形が、なぜだか父の怒りをかって、目の前で足がバラバラになったこともあるし、寝込みの弟が殴られて鼻が折れたこともある。姉は一番盾になってくれていた。私は殴られそうになったら自室に駆け込んで内鍵をかけた。「早く大人になりたい。こんな怖い想いをするなら結婚なんかしたくない。早く自立して一人暮らしをしたい。」と布団の中で唱えていたことだけは、鮮やかに思い出せる。
そんな恐ろしい出来事がある反面で、もちろん良い思い出もある。品川駅近くに当時住んでいて、両親の機嫌が良いと夕飯の後、近くのホテルの喫茶店にパフェを食べに出かけた。夜パフェ。子ども心に、夕食後に出掛ける特別感は本当に心が躍るもので、今でもスキップして坂道を歩いたことをよく覚えている。
呆けた父親の下の世話や、食事の準備をしながら、ふと思う。「あれ、私は早く自立してひとりになりたかったはずなのになあ。一度は家を出て、結婚もして、一人暮らしもしたのに、なぜだかこんなに実家を手伝っている。」
惰性なのか、情なのか。
家族だからと一言で言っても、家族は一つひとつ形が違う。だからあまり分かり合えない。だいたいこの歳で介護をしている同世代はほぼいない。みんな育児中。時々愚痴っても、いつの間にか育児の方が大変よ、的な流れになって居心地が悪い。介護やってみろって心の中で舌を出す。今まで、あんなに偉そうで、まあ実際金も稼いで、一人前だった親が、日々何かできなくなっていく。それを、怒らず焦らず、よりそって介護する。日々成長する希望の塊みたいな子育てとは皆目真逆なのだよ、と。
どこの家族にも、黒い部分はあるだろう。私自身、一度結婚した時は本当に我慢ができない事件に向き合うことになり、これはちょっと家族として一生運営していくには難しすぎると判断して家族を解散した。一緒に暮らしたこともない相手と結婚するということ自体がおかしかったなと反省した。結婚こそが幸せの称号のような、宗教じみたマーケティングをされ、それを疑うことなく憧れ、幼少期布団の中で呟いていた本当の気持ちを忘れてしまっていた。幸せの形は人それぞれ。安心して暮らせる場所こそが、家庭。不安があっても、家族の誰かには相談ができなきゃ。
家族とは、きっと決意であり、折り合いであり、情であり、運であり。そして、信頼と許し合えること。わからない。
父は、こうやって訳がわからなくなっても世話をしてもらえるというのは、かなり恵まれているなあとも思う。実際、父にはDVをカバーするくらい辛い過去があるから、今こうやって家族に囲まれている、ということもあるのだけれど。

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