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アカウントひとつ消したら「じぶん」が戻ってきた。

アカウントというものをはじめて持った時の
ふしぎな感覚をまだ覚えていたりする。

本名を消したくて、アカウントを作ったので
どっちかというと、もうひとりの自分みたいで
心地よかった。

ちょっとした逃げ場所みたいに考えていた。

でも時間が経つと、逃げ場所でSNSをやっている
とそこは日常のいつもの場所になってゆく。

そしてキャラもTwitterならTwitterのなかの
わたしであり。

noteで言えばnoteのなかのわたしになってゆく。

それはそれで楽しかった。

たったひとりの「じぶん」なんてしんどすぎるし。
いつも「じぶん」は確固たるものなんて思っても
いない。

いくつもの顔があってもいいじゃないかって、
ラフな気持ちになっていた。

それは自由だよ、解き放たれていていいよって。

SNSをはじめたのはnoteがはじめてだった。
あれから3年近く経って、去年からは
Twitterをはじめた。

いまのX。

そして去年の終りにインスタを始めたけど。
インスタの運用というか楽しみ方がよく
わからないのと。

なにかを投稿したいという気持ちに投稿しなきゃ。
というちょっと迫られた気持ちになっていたのと。

なにかじぶんがポストなりをしなくてもいいや
っていう気持ちも勝っていた。
つまり居心地があまりよくなくて先日アカウントを
消した。

アカウントがあることが、当たり前じゃないことも
わかっているし。わたしより年下の家族も、
アカウントは今はもっていない。

どちらかというとそういう世界にいて。

突然SNSをはじめたことの反動が今頃来ているのかも
しれなけれど。

noteを始めた時も、Twitterはじめたときも
「わたし」は幾人いてもいいと思っていた。

「分人」という考え方がある。

平野啓一郎さんのツイートではじめて知った。

もちろん今もその考え方にほぼほぼ肯定
している。

「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

「文人主義」公式サイトより。

いまだにTwitterやってたりnoteやっている
ことは、その表れだと思っているから。

でも、アカウントのコレクションみたいな人
にはなれないなって思った。

なんていうか、感覚的なんだと思うけれど。

わたしにとってアカウントは2個ぐらいが
ちょうどよさそうだ。

アカウントをばっさり消した時。
とても心が落ち着いた。

その時思ったのだ。

アカウントは、手でつかめない。手のひらには
残らないなんの身体性もないものだけど。

でもアカウントを幾つかもつと。
なんとなく自分の身体の外にわたしがいるみたいで
落ち着かなかったのも正直なきもちだった。

心が幾つもあるというよりも身体がもうひとつ
あるようで、そこはひとつにしておきたいなって
思った。

どこかに行ったまま帰ってきてない感じも
ちょっとあった。

居場所と言う言葉を安易に使いたくはないけれど。

SNSはメンタルだけでなく身体性とも、関わりが
深いことを知った。

また衝動的に何か始めるかもしれないけれど。
いまはnoteとXでゆるりとまわしてゆきたい。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。


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𖤣𖥧𖥣𖡡𖥧𖤣去年の11月にイラストレーターの
イシノアサミさんと絵本を作りました。
色から生まれた「こどもたち」の物語
絵本『どこかでだれかが』を
どうぞよろしくお願いいたします𖤣𖥧𖥣𖡡𖥧𖤣

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