自分が汚く感じる

 人の醜いところが目にこびりついたとき、他人の汚れで心身を穢されたとき、声を上げようとする。そのたびに、ふっと視線を感じる。そのひとすじは、過去という汚臭だった。

 それは何も言ってこない。わらいもせず、怒鳴りもしない。およそ一切の表情がなく、ただこちらを正視してくるばかり。

 生ぬるく、鋭く、熱く、ぬめり、冷たく、ぶよぶよしているその視線を、おっかなびっくり見つめ返せば、言葉がのどから消えていく。とたんに濃く、自覚させられる。目の前の他人より、自分のほうがよっぽど、よっぽど汚いということを。

 過去という、形もなければ色もない、触れることの決してかなわない視線と、自分の視線とが引っかかって、そうしてびんと震えたとき。音はふくらむ。お前は人を非難できるほど清いのかと。お前は他人を評せるほど澄んでいるのかと。お前は。お前は。お前は。そんな低さが、耳元で鳴り鳴り。もう何も、言えなくなる。言葉を、声を失い、いや過去に奪われて、沈黙を抱くしかなくなってしまう。歯ぎしりして、肌を掻きむしり、頭を抱えずにはいられなくなる。

 どれだけお風呂に入っても、川に日影に、雨に砂に、空に緑に肌を浸しても、正しそうに見えることを行い続けても、視線は消えない。びぃんと震え続ける。他者をきっかけに、音は響く。そうして、奪われた声は自らの肉へと向かっていく。お前は。お前は。お前は。

 人の醜さはそのまま自分の醜さであるという、いや、自分の醜さを薄めたかけらであるという事実を、現実を、過去は無言で鳴らし続ける。その、怖ろしい視線で。

                               (了)

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