本当の自分

 本当の自分っていう表現を、ずっとしてきた。

 こんなのは本当の自分じゃないって。本当の自分でいられるのは、こういうときだって。

 でも、あるときふっと思った。本当の自分、それはいったい何なんだろうって。本当とか偽物とか、そんなふうに、すっぱり切り分けられるんだろうかって。

 仮に本当の自分なんてものがあったとして、じゃあ、偽りの、嘘の自分として削がれた肉は。

 ずっとごまかしてきた。違和感も嫌悪感も。取り繕って、へらへらして。知ってることを知らないと言って、熱心に聞くふりをしたり。至るところに偶像として立っている、あの人間なるものと同じ格好になるよう、可能な限り振る舞ってきた。

 この自分は、自分じゃないんだろうか。

 心地よさで、解放感で満ちた器だけが自分なんだろうか。じゃあ、気持ち悪さや痛みで、縛りで満ちた容器は。この、虚飾できらめいている、金銀銅の入れものは。

 そう思うようになってから、違和感が増していった。心地よく、共感できた言葉たちが、ことごとく不気味なものへと、怖ろしいものへと変質していった。

 偽らずにはいられないから偽っている以上、この、どうしようもない、装飾にまみれた自分もまた、確かに自分ではないのか。

 これが本当の自分で、こういうときの自分は本当の自分じゃない。そういうふうに捉えたとき、じゃあその、自分じゃないとされた何かとは、果たして何なのか。どうなるのか。そのかけらは、塊は、打ち捨てられなければならないものなのか。

 あらゆる状態が、まさに自分という存在であって、そしてそれは、まったく意味の分からない、手に負えない何か。

 今はそういうふうに直覚していて、だから、こういうふうに言われると、どう笑顔を作っていいのか、まったく、くらくらしてしまう。

 そう。自分を偽っちゃいけない、もっと自分に素直になりなよ、自分らしく生きようよ、たった一度の人生なのに、自分は今本当に自分らしく生きることができている今まではそうじゃなかった、なんて言葉たちに出くわすと。

                               (了)

読んでいただき、ありがとうございました。