初日の出

 カビっぽいにおいのするクリーム色のコートを羽織って、リュックを背負い、濃い緑色の杖を握って。あけぼのの蒼に足を浸せば、降りていた霜が、目玉に張りつきました。ぼうっと光る膜。家の前の細い道も、正面にある田んぼも、用水路に生えている苔や雑草さえ、青白く息をしていて。まばたきをして目を擦り、仰向けば、薄い雲が一条、まだ見えない太陽のほうへと昇っていました。

 空の一角を染めている、山の上の熱っぽい琥珀色へと目をやれば、吐いた息がおぼろげに浮かび、まぁるい形となってつぶれ、風に呑まれて。目を細め、左手をかざして遮れば、青い血管が甲でふくらんでいて。見つめていたら、骨張った手が、重さでだらりと垂れました。

 杖をことこと鳴らしながら、一歩ずつゆっくり、歩きました。すねで波打つ、スカートの裾。冷たい空気に、足首を太ももを、腰を胸を、きゅっと締め上げられて。ときおり、スニーカーの裏から、コンクリートを覆っている霜の割れる音がして。冬霞で甘くなった空気。向こうに見える山はきらきらぼやけ、てっぺんは真白に色づいていて。小鳥の鳴き声が、凍てつく空気と擦れ合い、硬く響いて。聴きながら、上着の袖口に手を呑ませました。だけど、杖を握っている右の指だけは、どうしてもかゆくって、ひりひりして。ときどき持ち替えて、息をはぁっとかけました。呼気でしっとり湿る素肌。寒風が吹いて。そよいだ髪を撫でたら、ほんのり濡れていました。

 農道に入れば、隅のほうで、水溜まりが薄く凍っていました。杖の先を軽く押しつけたら、ヒビが入って。そっと踏んだら、大きく割れて。奥の水が、じわりと周りに広がりました。息をゆっくりと吐き、しゃがんで破片を拾い上げたら、濁っていて。葉のかけらが閉じ込められていました。痛む指頭。遠くに見える山の縁から漂ってくる淡い蜜柑色にかざしたら、淡黄が散らばって。目に落ちてきました。すっかり長くなった黒髪と、細面と、赤味がかったほっぺたが、白濁に曖昧に映り込んで。まばたきを繰り返し、そっと唇を寄せて。舌を這わせたら、先が張りついて。すぐに剥がしたら、ちくりとした痛みといっしょに、土と水と、草のにおいがしました。

 氷を用水路に流して腰を上げ、また杖を支えに足を動かして。旧道に出て、山の木々に覆われているほの暗い坂を、緩やかに上りました。葉擦れの音がするたびに、冷たく鎖された緑の香気が、ほのかに香って。朽葉が転げ落ちてきます。荒い息をこぼしながら瞳を動かせば、樹の胸のなかでは、まだ夜が眠っていて。仰いだら、青く透け始めた空のかけらが、薄く瞬いていました。左手をそっと伸ばしたら、張っていたクモの糸が一本、指に絡んで。撚っていたら、向こうからやってきた軽トラのおじさんと、すれ違いざまに目が合って。口をきゅっと玉結び。

 歩き続けていたら、足が自然と止まりました。両ひざを痛みに喰われて、立っていられなくなって。リュックを下ろし、ぺたりと座り込んで。ざらついている、冷っこい地面。体温の吸われていくお尻。水筒を取り出して両手で包み、温かいほうじ茶に、そっと口づけを。熱と風味に、えぐれた口内炎をいくつも抱かれて。のどを、お腹を、熱がとんとん叩いてきます。涙目になりながら呼気を浮かべれば、さっきよりも濃く見えて。風と一つになって消えていく湯気を、目で追いながら、もう一口。顔に力が入りました。口元を手で覆い、伝ってきた涙を人差し指で拭って。枝葉の隙間から空をうかがえば、お日様はもう、顔を出してしまったようで。ハトの鳴き声が聞こえてきます。眠っていた夜の、あくびでした。

 水筒をしまい、温もった息を両手にこぼして。杖に手を伸ばし、体を動かしました。重たい背中。しにくい呼吸。歩くたびに擦れて痛む、下着のなかの陰部と、肌着の下の素肌。口呼吸をしていると、ほおの内側の口内炎が、奥歯にふれて。何度も振り返りました。さっき見たときから、ほとんど変わっていない景色。ただ、明るさが増していくばかりで。下唇を噛み、汗の溜まっていた左手で髪をくしゃくしゃとかき乱しました。動きに合わせて軋む、ひざ小僧。それでも、木漏れ日で虫食いになってしまった道を、転びそうになりながら、進み続けて。

 かすれた黒い字で農村公園と書かれている、小さな看板のところで左に折れて。急な斜めを這うように上がっていけば、ようやくたどり着きました。芝生はきらきら濡れて、錆びついた遊具の金具は鈍い色を滴らせて。うつむきながら公園の脇を通って、駐車場のほうへと向かい、奥にある、朽ちかけた木のベンチに左手をついて。リュックごと背もたれに体を預けたら、冬風とぶつかって。杖が手からこぼれました。濁った音が、足元の灰色にべっちょりとこぼれて。おでこを拭ったら、冷や汗で右手がきらつきました。震える体。胸をさすってもおさまらない、乱れた呼吸。顔を上げたら、塗装の剥げたフェンスの向こうに、町が広がっていて。その先にある蒼い山の縁で、太陽がさんさんと輝いていました。痛む瞳。陽の温もりが、鼻を、まぶたを、ほっぺたをしゃぶってきて。呼気がきらめきました。目を伏せたら、家や建物の屋根もまた、まぶしくて。視線をさらに垂らしたら、杖が深く、ひらめいていました。背を丸めて拾い上げ、ぎゅっと抱けば、ぽかぽかしていて。歯を食い縛ったら、唇の端から、淀んだ声が垂れて。眼前が潤みました。

 鼻をすすりながら目元を拭い、顔をおもむろに上げたら、日影が少し、やわらかくなっていて。どこまでも澄み渡っているみ空。薄くたなびいている雲の目は細かく、日差しと青で彩られていて。それを喰うのは、小虫のような黒いつぶつぶや、糸状のうねった短い真黒。肩で息をしながら瞳を閉じれば、まぶたの裏側が薄赤く色づいて。日光の降る音が、ざぁざぁ聞こえてきます。町の息遣いが立ち込め、公園を抱えている山の口臭が濃くなって。こずえがあちこちで口ずさんでいます。目を開けば、サギが一羽、ため池の辺りから飛んでいって。

 のどを震わせながら、ベンチに杖を立てかけて。リュックからお弁当箱を取り出しました。藍色の包みを太ももの上で広げ、ふたを開けば、冷凍のシャケやからあげ、ひじきの色が鮮やかで。血管まで暖かく透けた指先で、からあげをそっとつまみ、かじったら、ほとんど凍ったままでした。

 お茶を飲もうと、リュックの口に手を伸ばしたら、指に水雪が降ってきました。銀や黄金が、あるいは透明が、なかから溶け出してきて。じわりと形を失っていく結晶には、空の透徹が映り込んでいました。見上げれば、深雪は陽光を吸っていて。足元から、手元から、ベンチから、雪の声が、しんしんと聞こえて。いくつか握って、そっと手を開いたら、雪花はもう、消えていました。

 ポケットで鳴る携帯。構わずに、前を向いて。雪化粧をした太陽を見つめました。しゃくり上げながら、まっすぐ。

                               (了)

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