切り捨てられた感情

 ずっと、あいつのことが嫌いでした。
 あいつは私が生まれる前に、私を捨てていなくなったから。
 顔も名前も知らない、知りたくもないあいつは。

 こういうことを打ち明けると、人は私に言うんです。
 乗り越えて、強く生きなきゃいけないって。
 つらいのは君だけじゃないって。
 もっと大変な思いをしている人だってたくさんいるんだぞって。
 お前は幸せにならなきゃいけないって。
 不幸自慢はやめろって。
 そういった類いのことを。

 しかも、それだけじゃない。
 似たような境遇で、前向きに、明るく生きている子の話ばかり聞いて、感動して、持ち上げるんです。

 何度耳にしたでしょう。目にしたでしょう。
 そういう子たちに対して、いい子だなぁって、幸せになってほしいなぁって、しみじみと言っている大人の声を。上から目線を。
 エモいとか、立派とか、天使とか、偉いとか、泣けるとか、そういった、情感たっぷりの言葉を。

 いなくなった父親を憎む私は、おかしな子なんでしょうか。
 いなくなった父親に嫌悪感を抱く私は、悪い子なんでしょうか。
 いなくなった父親を許せない私は、くだらない子なんでしょうか。間違った子なんでしょうか。

 私は、私の想いが容赦なく切り捨てられていくその瞬間を、大人たちの言葉のなかに見ました。何度も、何度も。

 大人たちはうっとりとその子たちを褒めるけれど、じゃあ、私の抱いている感情のすべては。
 そのいい子たちのようにできない私は、思えない私は、振る舞えない私は、感じられない私は。

 私は知りました。
 大勢から見れば、自分は歪んでいること。自分は間違った想いを抱いていること。
 自分はしっかりしておらず、ろくでもないこと。
 自分の持っている属性とやらは不幸の代名詞で、なおかつ消費される対象であること。
 その子たちの言葉を、生活を、人生を、どこまでも拡散させていく人たちの暴力性を。その自覚のなさを。あったかさという地獄を。

 あの子を見ていると自分も頑張らなきゃって思う、なんて言葉が、そういう立派な子たちを褒め称える一切の表現が、心を蝕んでいくんです。

 私は自分を責めました。自分を心底嫌悪しました。今もしています。

 大人たちによって切り捨てられた感情を、私は拾い集めて抱き締めることができません。

 私は自分を、今なお肯定できないんです。
 大人たちの言葉の不自然さに、軽薄さに、暴力性に、頭のなかでどれだけ気づいていたとしても。
 こんな文章を書けたとしても。

                               (了)

読んでいただき、ありがとうございました。