人間らしさ

 私は、人間らしさという言葉が嫌いです。

 人間らしさ。なんと害悪な概念でしょうか。人が人間として生まれてきたのは偶然なのに、人間であることを、正しい人間であることを、まさに強いてくるんですから。

 人間ならこうあるべき。人間としてどうなんだ。そういった言葉で他人を縛ろうとするのは、男ならこうあるべき、女としてどうなんだ、と言って、他人を裁こうとすることと同義です。肉体的な性を、自らの意志で選び取って生まれてきた人が、一人としていないように、人間であることを決意して誕生した者など、およそ存在しないんです。気づけばたまたま、人間であっただけのこと。

 人は人を、平気で断罪しています。たとえば、孤独をよしとする人間を。たとえば、人の気持ちが分からない人間を。たとえば、子は産まないと決めた人間を。人としておかしいという、呪われた表現を用いて。多くの人間が、あるべき正しき姿でいるように、他者に強要するんです。それは何も、直接述べるという形だけではなくて、陰でささやくという形だけではなくて、疎外するという形だけではなくて。憐れんだり同情したり、あるいはそもそも何をも述べないという形で、集まった人間は、集まれない人間を、弾き出された人間を、指すんです。お前は人間としてどうなんだ、と。

 見渡してみてください。明るさ、優しさ、思いやり、友情、愛情。たとえばこのなかの、どれか一つでも欠けていたら、いいえ、色が薄かったら、いったいどうなるか。欠陥品扱いです。そもそも、他人を愛せない人がいたとしても、何ら不思議なことではありません。人は凄まじく、そして理不尽なほど、多様なんですから。他者を愛することができない人に首を傾げるのは、人間は人間を愛するものだ、という決めつけに、刷り込みに、心地よさに、自分勝手な定義づけに、ただ浸っているからです。そして、そういった決めつけは、そこに安住することは、一言で言えば、殺戮です。少なくない個人が、このことによって精神的に抹殺され、社会的に排斥されているんですから。そもそも、人間が人間を愛するわけじゃない。ある個人がある個人を、ただただ愛しているだけです。それを、人間という全体にまで敷衍することのむごさを、どうしてほとんど誰も、口にしないんでしょう。

 人間に、あらかじめ備わっている定義など、ありはしません。そんなものは、勝手に拵えられただけのものです。男性は何とかで、女性は何とかで、というのは、あとから貼られたシールというだけ。大人なら、社会人なら、もう何歳にもなるくせに、というのも同じです。そんなものは、社会の、人間関係の円滑化のために置かれてある、案内板に過ぎません。だから当然、ころころ変わっていく。そうして、かつての案内板の読みにくさや汚さを、文の拙さや内容の低俗さをあざけり、罵り、その隣の、ぴかぴか新しい文字を見て、胸を張る。それもまた結局は、ただの木の板であるということを、作られたものであるということを、さっぱり忘れて。

 人間として。人として。そのあとに続く言葉が何であろうと、そういった言い方をするということは、他人を鋳型でチェックするということです。そうして、その鋳型は往々にして、気づけば握らされていたもの、世間で乱売されているもの、あるいは偉いとされる、かつての誰かが持っていたものです。自らの手で一から加工して、磨き上げたものじゃない。そんなもので、他者を判定しようとすることが、いったいどういうことか。性で、人種で、生まれた場所で人を決めつけることと、人間で人を決めつけること。根は同じです。

 多様性を謳いながら、ある特定の観念からの解放を訴えながら、根底にある人間らしさ、人らしさからの自由を、人は求めない。むしろ人間であることに、正確には、好ましいとされている人間であることに、誰もが執着し、理念としての人間を賛美し、他者にも要求する。完全な型を想起させる人間であることを、誇りすらする。特定の国籍や性や人種や生まれを高らかに掲げて他者を見下すことと、いったい何が違うんでしょう。

 意識したときにはもう遅い、勝手にくくりつけられているもの。それが、人間という観念です。そこには、精神的な色彩が、理想の陰が、同意なく塗りたくられている。そして、ある人の内面の、行動の濃淡が、あるいは色合いそのものが、その結ばれているものと、異なっているとき。人は容赦なく、断頭台へと、相手を連れていくんです。そうして、その落ちた頭を、見せしめとして晒すんです。お前たちよ、人間であれと。

 私は、人間らしさを喧伝する人が嫌いです。

 人間なるものから、逃れたいんです。

                               (了)

読んでいただき、ありがとうございました。