ありのままの自分で

 ありのままの自分で、あなたでいいって、優しそうな顔は言います。けれど、ありのままの自分って、いったいなんですか。

 たとえば今この瞬間、私がありのままの自分でいることを選んだとして、それは本当にありのままでしょうか。私という人間は、あふれている価値観や考え方、文化に思想に社会に、親に他人によって既に汚染されています。無数の言葉を、概念を、見方を、稲みたく植えつけられているんです。品種改良をしたうえで。そしてそれは、すでに実っています。それはありのままですか。今この瞬間の自分は、本当に自分ですか。他人や空気ではないと、どうして断言できますか。私という人間は、存在は、田んぼじゃないって。

 仮にそれらを刈り取ってみようとしたところで、完全には取り除けない。結局、本来の自分なんてものは想像上の生き物に過ぎません。湧いてくる感情の発露が自分なんだと言ってみたところで、生まれた瞬間からこれまでに降り注いできた日光や雨の、あるいは農薬の影響をなくすことはできない以上、その感情がありのままの自分であるとは言い切れない。生じた嫌悪感が、本来の自分を源泉にしていると、なにゆえ胸を張れるでしょう。

 ありのままありのままって語りかけてくる言葉は薬物です。確かに楽にはなれるかもしれない。気持ちいいのかもしれない。でもそれは、あらゆるものを奪っていく。どうにかこうにか考えようとする態度も、自分という存在そのものへの疑いも。

 ありのままの自分で、なんて言葉を口にするようになったら、根拠なく自らを妄信することになります。そうしたらどうなるか。自分の抱いた感情を疑わなくなるし、好悪で一切を判断するようになる。思ったことや考えたことに対する内省はなくなるか、あっても形式だけ。好きを淫らにひけらかすようになり、最終的にはありのままなんてものに隷属していく。他人の、概念の、空気の、あるいは空想の言いなりになるということです。自ら進んで。それは素晴らしいことだよって笑いながら。

 信じるとは結局、その信じた事柄の陰影は見ないという宣言です。それは絶対だと、あるいは正解だと、素晴らしいと思い込む態度です。ありのままの自分でいいんだ、なんていう考え方は檻です。そう思った瞬間から、自分という一切が謎に包まれている存在は、そこに幽閉されてしまう。そして自分が閉じ込められたら、あらゆるものも同時に閉じ込められるでしょう。映るもの、響くもの、におうもの。一切は自分という何かを介さないと存在できない以上、自分が檻に入ってしまえば、全てもまた、格子で区切られる。

 結局、理由はなんであれ疑うことをやめているから、だから言えるんじゃありませんか。ありのままの自分でいいなんていう、曖昧かつ危なっかしい言葉。

 自身を嫌い、絶えず疑っているような人の言葉のほうが、実はずっと優しくて、それでいて本当により近いだろうって、私はずっと思っています。自分を知った気になりながら、ありのままでいようよと語りかけてくる笑顔。怖ろしさと狂気を感じます。

 自分に対する疑念や不信がなくなったとき、稲は田んぼは、黄金色に輝くでしょう。

                               (了)

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