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しーんとするとき


二年前の秋に、母方の祖母が亡くなった。体調を崩して入院し、その後肺炎が悪化して、帰らぬ人となった。祖母は小柄で静かな人だった。でも話し出すと面白い人だった。


入院中、祖母はよく病室をぼんやりと見回しながら「変なものが見える」と話していた。「変なものって、なにが見えるの?」とたずねると、「うまく言えない」と言う。


そして亡くなる少し前に、ベッドの上で何か手作業をしていたところ、祖母ははっと後ろを振り向いて、「お坊さんふたりがいる」と言った。それを聞いていた親戚の女性は、お迎えが来たんだろうなと思ったらしい。



ちなみにその一年前には祖父も亡くなっているのだけれど、祖父も入院する少し前から、死んだ兄が何度も夢に出てくるのだと話していた。


「ミツ(祖父の愛称)、こっち来いや」


と言って、兄が手招きをする。祖父も兄のもとに行こうとするのだけれど、どうしてもそこに行くことができない。行けない、と言うと兄は、


「そっちから回ってくればいいんだって」


と言って、道を指し示すような仕草をする。それでもやっぱりうまく進むことができない。そういう夢を繰り返し見ていたと聞く。


お迎え現象とよばれるものは、本当にあるのかもしれない。何にしても、帰る場所があるというのはとても素敵なことだ。わたしも小さい頃から死んだらどこかに帰れるものだと思っていた。どこに帰っていくのかも知らないし、生まれる前にいた場所のことなんて覚えていないのに、とにかくそこが恋しくて仕方がなくて、もういいから帰らせてくれーとしょっちゅう思っていた。


時々、自分はいったい何が嬉しくてこの世界に生まれてきたんだ?と考えることがある。生きているのがあまりにもつらいとき。この世界は自分には何もかもが激しすぎる。そう思えて仕方がないとき。


そういう耐えがたい感情に駆られたとき、わたしはとにかく泣くことにする。涙も出ないような状態でも、泣こうと思って力んで無理やり涙に暮れてみる。気絶するまで痛飲し、煙草も吸って、薬を飲んで家の中をのたうちまわる。


そうして涙の塩分で皮膚が焼かれて顔中しょぼしょぼになって眠る夜をくりかえしていると、あるときふっと、何かに呼ばれたように顔をあげる瞬間がくる。そしてそのとき、不思議なくらいに静かな気持ちになる。心の奥にきれいな水滴が一滴落ちて、静かに波紋が広がっていくような、そんな感覚がする。とんでもなく深い井戸の底に、何百時間もかけてようやくこの涙が届いたような、そんな感じがする瞬間。わたしだけではなくて、たくさんの人の、あらゆる深さの井戸に、そういう一滴が届く瞬間があるのだと思う。


そしてそういうとき、過去のものとも未来のものとも言い切れないような、とても大切な記憶が心の中を横切っていく。何がしたくて生まれてきたのかということを、何の根拠もないのに、これだと再確認する。

わたしの場合で言うと、ああそうだ、わたしはもっと深い感情が知りたくて、そのためにここに生まれてきたんだな。だからどんなにつらいときだって、なにかを失ったときだって、本当のわたしは嬉しいんだ。喜んでいるんだ。そういう考え方が自然と浮かんでくる。それは幸せを感じる心とは少し違う。とても静かな、夜明け前の凪の海のような気持ち。


何年か前に、遠藤周作さんの「ひとりを愛し続ける本」を読んだ。その本には“心が「しーん」とする瞬間”という章があって、そこにはこんなことが書かれてあった。


だがこのように散文的で、だらしなく、うす穢れた我々の日常生活にも、「しーん」とした何かが入りこんでくる時がある。その時を私は「人生の時」とよびたい。それは「生活の時間」にさしこんできた「人生の時間」なのだ。(中略)
日常生活のなかに「しーん」とした人生を挿入するのは苦しみである。そういう苦しみを多少でも持っている人間には、その多少に応じて、他の「しーん」としたもの、絵でも踊りでも音楽でもわかるのだろう。なぜならそれらは我々を酔わせるものではなく、ふたたび心を覚醒させるものなのだから。


映画を観たあとの「しーん」
芸術に触れたときの「しーん」
愛する人と別れたあとの「しーん」
泣き疲れてふっと顔を上げたときの「しーん」

人によって状況は様々だけれど、たしかに「しーん」とする、という瞬間は、折に触れてやってくる。深い井戸に水が一滴落ちるようなあの感覚も「しーん」だ。あの何もかもが明確になるような静けさに身を置いているときこそ、わたしたちは本当に目覚めていると言えるのかもしれない。



そしてたぶん究極の「しーん」とは、死んだ直後にやってくるのではないかとわたしは思う。

死んだ直後にどんなところに行くのかはわからない。でも、三途の川を渡るにせよ、天国へ向かう舟に乗るにせよ、白い門の前に立つにせよ、心は平穏と静けさに満ちているはず。というか、そうであってほしい。


祖父母がお迎えにきてくれたお坊さんや兄弟のもとに行けたときも、きっとそうだったらいいと思う。「しーん」とした美しさのなかで、ふたりが目を覚ましてくれていたら嬉しい。


余談になるけれど、わたしは自分の死体を残していくのが怖い。死んだら体ごと天に舞い上げられて、青い空に溶けて消えてなくなりたいと思っている。


以前、とある人にその話をしたら、彼女は「フランダースの犬みたいに?」と言った。そう、フランダースの犬みたいに。

でもわたしは、今までの人生で失ってしまったものをいつかべつの形で取り戻すまでは、なんとか生きていたいなあ思う。逆を言えば、それを取り戻せたら若くして死んでもかまわない。だから、できることならあと数年で人生を駆け抜けて、家族や友人には「どこかで生きているんじゃないかなあ」と思ってもらったまま、最後には誰にも見つからないような場所でひっそりと死にたい。


その話も伝えると、彼女は「猫みたいだね」と言って笑ってくれた。そう、猫みたいにひっそりと死ぬのがいい。


でも、あと数年で人生を駆け抜けて死にたいとは言っても、家族や友人をはじめ今まで多くの人に生かされてきたことを考えると、自分ひとりの人生がつらいからといって安易に投げ出すわけにはいかない。だから自分で首をくくることはあまり考えずに、それが運命ならそうなってほしいです、と祈ろうと思う。

あと、希望ばっかりで神様にこいつ意外に図々しいなと思われそうだけど、死ぬ時はひとりでも、お迎えはぜひ天界の人たちに総出できてもらいたい。そしてつぎに目が覚めた時には、「しーん」とした美しさのなかで人生を振り返り、「うむ、一件落着」と言って、天国の暮らしをスタートさせたい。

そのあとは盛大にお祝いだ。飲めや歌えや、踊れや騒げだ。「しーん」のあとには、そういう賑やかさがあってもいいような気がするから。





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