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織姫との夏の日

「あ、夏の大三角が見えるよ。」

君が満天の星空の中、特に光る3つの星を指さして、そう言ったのを今でも鮮明に憶えている。

あれは小学校2年生の夏だった。

妹を妊娠していた母親と共に岐阜にある母方の実家で夏休みの殆どを過ごした。

東京でしか生活したことがない僕にとって、群馬の山奥にあるこの田舎は経験したことのない未知の世界で、異次元に自分がいるかのようだった。

そんな中、祖母が母の実家の隣に住んでいた同い年の君を教えてくれた。いつの間にか一緒に遊ぶようになっていて、川遊び、虫取り、秘密基地作り、田舎でしかできない、子供の時にしかできない遊びで遊びつくした。毎日日が暮れるまで遊んで、夜になってから家に帰った。その度に母親に叱られた。でも、なぜか祖母はこんなに遊ぶ僕を見てどこか嬉しそうだった。

君が僕に星の話をした時もそんな夜、家に向かって歩いていた時だった。

「ママが教えてくれたんだ。あれが夏の大三角だって。」

そうやって真っ直ぐに星空を見ている君の眼に綺麗な夜空が映っていたことを憶えている。

「織姫と彦星の星もあるんだって。なんで二人はあんなに遠くに住んでいるのかな?近くに住んでいれば毎日会えるのに。」

そうやって僕のほうを急に振り向き、無邪気に笑顔で聞いてきた。その振り向いた顔を見て、今までの8年間の人生で誰にも思ったことのない感情が心に湧き上がった気がした。

「・・・分からない。」

何故か急に顔を合わせるのが恥ずかしくなって視線を逸らしながらそう答えた。

「ふーん、じゃあさ、東京で調べてきてよ!来年の夏、分かったら教えて!」

そう言われて、何も答えることができずにいると、君が続けた。

「1年待つって、織姫と彦星みたいだね。」

君はそう言ってこれ以上とない笑顔を僕に見せた。何にも悪いことをしていないのに、自分の心が締め付けられるのを感じた。

やがて、夏休みが終わり、僕たちは東京に帰った。

いつも通りの日常が再び訪れた。でも生活の中で、君のこと、夏の出来事を思い出すときが度々あった。その都度、来年の夏に向けて織姫と彦星の話を調べて、どう君に話すかを精一杯考えた。

1年後の夏、君に星の話をする準備は完璧だった。ただ、親の都合で今年の夏は母の実家に帰れないということになった。普段は従順で温厚な僕が岐阜に行けなくて泣きながら怒るものだから、母親も困惑していた。

結局、次に岐阜に行けたのは小学校5年生の夏だった。

岐阜に向かう道中も心が躍り、3年間集めに集めた数多の星の知識を君に話すことを楽しみにしていた。

だが、君はそこにはいなかった。

祖母から君が遠くに引っ越したことを伝えられた。

伝えられたその日の夜、僕は君が星の話をした場所まで行き、寝っ転がって夜空を見上げた。

君に会えない悲しみと星のことをどれだけ調べても会えない虚しさが押し寄せ、涙がこみ上げてきた。僕は満天の星空に向かって泣いた。

そして、自分の心が締め付けられたのが恋だと、初恋だとその時初めて気づいた。

いつの間にか僕は、近くの川のせせらぎと蝉の声を子守唄に、その星空の下で眠ってしまった。

両親と祖父母は一晩中僕を探して大変神経をすり減らしたようだ。父と祖父に大目玉をくらい、日没後に出歩くことを禁じられた。あんな素敵な星空が広がっているのに見られなくなってしまった。そして母の実家への思い出が悪くなり、それ以降祖父母の実家に向かうことがなくなってしまった。星空も、見上げるのが悲しくなって興味が薄れていってしまった。

大学2年生の春、祖母から連絡があった。今大学で航空力学を専攻している自分に、夏休み岐阜の博物館でボランティアをしないかという話だった。もう過去の思い出のしこりもないし、夏にやることも特になかった。合宿をやるサークルも特に面白くなくてやめていた。だから、行く事を決めた。

毎日祖父母の家から博物館まで自転車で通った。東京に住んでいる自分にとっては、田舎を自転車で駆け抜ける爽快感は楽しかった。就職はJAXAに入りたいな、もしくは大学でずっと研究したいな、とざっくり思っていた。だが、毎日子供たちが楽しそうにしているのを見て、教師や学芸員になるのも悪くないな、と思うようになっていった。

普段は日没前に帰宅できるのだが、その日は夜まで仕事が残ってしまった。仕事を終えて、街灯もまばらな田舎道を自転車で飛ばしていた。すると、一つ見覚えがある景色で立ち止まってしまった。その景色は僕に思い出したくないはずの甘くて苦い夏の日の思い出を思い起こさせた。

自転車を停め、懐かしい場所に腰をおろした。祖母にさらに遅くなる事を携帯で伝え、あとはただただぼうっと星空を眺めていた。思い出を深く振り返ることはしなかった。そんなことをすると泣いてしまいそうになる。

数十分経っただろうか。背後から突然声が聞こえた。

「織姫もこんなには待たないんだよ。」

人がいる驚きと君なんじゃないかという期待で心が動揺しながらも、即座に振り返った。

振り返ると声の主が君だということにすぐに気がついた。

そこには昔と変わらずに素敵な笑顔を振りまく君がいた。

君は僕の隣にすっと座り、小学3年の夏会えなくて寂しかったこと、5年前から毎年夏に岐阜に帰っていること、僕の祖母から僕が街に帰ってきていることを知ったことを説明してくれた。けど、動揺してそれらがあまり耳に入ってこなかった。

一通り君が話し終えると、君が無邪気に言った。

「じゃあ、星博士にいろいろ教えてもらおうかなっ。」

僕はその言葉で我に返ると、自分の知っている星の話を話し始めた。織姫と彦星の話から始まり、とめどなく星の話をした。最近は興味なかったのに、こんなにスラスラと星の話が次から次へと出てくる自分に驚いた。

僕は話の最中、星もロクに見ずにずっと君を見るようにしていた。もう目を逸らしたくない。もう離れたくない。1秒でも長く君を見ていたい。そんな思いが僕の視線を君から離さなかった。君もじっと僕を見つめて真剣に、そして笑顔で僕の話を聞いてくれた。

話している時、自分の声の他に川のせせらぎと蝉の声しか聞こえなかった。それらの奏でる音は長い時をかけてとうとう天の川を渡りきった僕たちを祝福しているようだった。

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