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窓のはなし

あまり嬉しくない想像ですが、もし他人によって自由を奪われ、どこかに監禁あるいは軟禁されたとします。
その際、自分は何があればその生活に耐えられるだろうと考えた時、話し相手、本、犬、音楽などさまざまな対象を差しおいて、まずこれだけは絶対に外せない、というものを思いつきました。

窓です。もし窓がない場所に幽閉されれば、私は短期間で精神のバランスを崩すと断言できます。


私が生まれた家にはとりわけ大きな窓があり、今の住まいにも全ての部屋に窓があります。
窓がない建物の中では落ち着かない気分になりますし、地下のお店も苦手です。

私にとって、外界と遮断された状態は不安そのものであり、外の様子が見えなかったり、外気や光が入らないことにも気が滅入ります。

逆にいえば、たとえばどこかに幽閉されても、窓さえあればやっていく目算もつきそうです。
特にそこから空が見えれば、何がなくても決定的に退屈もしないはず。


私は室内にいると無意識的に窓のほうへ視線をさまよわせており、この癖は人からもよく指摘されます。

「何を見てるの?」
「何か面白いものがある?」

そう聞かれれば答えは色々で、空を流れる雲の形は興味深いし、光線の変化の具合は美しく、季節ごとに違った鳥がやって来るのも愉しい。
窓枠の向こうには、とても豊かな世界が展開しているように感じられます。

しじゅう窓の外を眺めていても、視界に入るのはそんなのんびりした光景がほとんどながら、それでも先日、ちょっとしたドラマさながら、冷や冷やさせられる出来事がありました。


私の家のリビングからは、緑地帯のある歩道を挟んで向かいのマンションの玄関通路が見えるのですが、ある朝、そこを高齢の男女二人づれが歩いていました。
お二人の歩みはゆっくりで、特に女性は遅れがちです。

おみ足がご不自由なのかも、と気になり目で追ううちに、女性の姿が視界から消えました。
腰の高さほどの壁が遮って確認できないものの、どうやら床に倒れておられるようです。

先を行く男性はそれに気づかず、のんびり歩き続けています。
いくつもの玄関扉の前を通り過ぎ、やっと状況に気付いたようですが、とっさに頭が働かないのか、顔だけは女性の方に向けたまま、そこから微動だにしません。

するとどこからか叫び声がして、キャップにナイロンパーカーにリュックという、スポーティーな装いの男性が現れました。

男性は床に屈み、やがて女性と共に立ち上がったのですが、女性はすがるように男性にもたれかかり、立っているのもやっとの状態です。

それでも男性は後ろ向きのまま注意深く足を進め、女性もよろめきながら歩きます。
女性の連れの男性は、それを見守るだけで、四つほど向こうの玄関扉の前から、やはり全く動きません。
女性が自力で歩けないのは明らかで、何度もバランスを崩して倒れ込みそうになるのを、男性がかろうじて支え、ということが数歩ごとに繰り返されます。

私も駆けつけるべきかとも考えましたが、ただでさえ狭い通路で、それほどの力もない人間が手をこまぬいていても、かえって邪魔になりそうです。
むしろどこかへ通報するか助けを呼ぶべきだ、と考え始めた時、ご近所の方らしいマダムが現れ、軽く男性と言葉を交わすと、いったん姿を消し、すぐに椅子を抱えて戻ってきました。

そこに女性を腰掛けさせて、ひと呼吸ついてから数歩歩き、また椅子に座っては歩く、が長い時間をかけて繰り返されました。

男性は何やら声をかけながらひたすら女性を支え、女性も顔を深くうつむけたまま一心に脚を進めようとし、マダムは後ろからつかず離れずで椅子を抱えて二人についてゆく。
三人のそんな様子を、私は窓枠を握りしめ固唾をのんで見守ります。

そしてようやく目当ての玄関扉の前に辿り着くと、そこからまた苦労して敷居をくぐり、皆は室内へと入って行きました。


私も救援に駆けつけるべきだったのか、どんな手助けをすべき、あるいは出来たのか、今でもよい考えが浮かびません。

窓の向こうで起こる一連の出来事はリアルでありつつ、どこか奇妙な絵空事のようでもありました。
窓越しに、手の届きそうで届かない距離でただ成り行きを見守る自分の立場が、そんな風に思わせたのかもしれません。

映画『裏窓』では、怪我のためベッドに釘づけのカメラマンが、窓の向こうに殺人事件を見つけますが、私もそれに劣らぬような驚きと葛藤を味わいました。

とはいえ、あまり肝を冷やすような光景を目撃するのでなく、窓はもっと明るく穏やかなものに向かって開かれていることを望みます。
たとえば、同じ映画だとしても、どちらかといえば私はこんな窓が好みです。

神が扉をお閉めになるときは、どこかに窓を開けてくださるものだ
(『サウンド・オブ・ミュージック』より)

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