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絶望につける薬

私はあまりに目まぐるしく移り変わる映像が苦手なため、TikTokはほとんど見ません。
けれども、そこでいま太宰治が人気を博している、それも、日本でなくアメリカで、というニュースには驚きました。

なかでも太宰の最後の作品『人間失格』が人々の心を強く掴んでいるそうで、ついにはニューヨーク・タイムズの書評に取り上げられ、書店には本が山積みだと聞けば、本当に世の中では思いがけないことが起こるものだと感じます。


太宰は好き嫌いがはっきりとわかれる作家であり、嫌いだという人たちは、たいていこんな理由を口にします。

「暗い」
「世界が狭い」
「なよなよしている」
「ナルシスト」
「典型的駄目男」
「社会不適合者」
「やたらと死にたがっていて鬱陶しい」

わかります、そうですね、おっしゃる通りです。そう答えるしかないくらい、太宰ファンの私もそれは否定できません。

けれど、欠点と長所は表裏一体であり、そういった数々の“駄目さ加減”こそが、太宰作品の素晴らしさを作り上げてもいます。


ついでのようにもうひとつ反論すると、太宰はサービス精神から、世の中に求められている“太宰像”演じていたことも確かです。
そのため、本人はあんがい明るさやユーモアを持ち、生命力に満ちた図太い部分もあるのです。

ことに私が好きなのは昭和19年に書かれた紀行文『津軽』の最終章で、長引く戦争で国全体が疲弊し、繰り返される本土空襲により死が隣り合わせの日常でも、太宰は空元気を思わせるほどの威勢の良さで、物語の終わりをこう締めくくります。

さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬

本当に“なよなよして、暗く、やたらと死にたがっている”人には決して書きようのない文章です。

私は時々おまじないのように心の内でこれを唱え、ひそかな勇気の糧にしています。


これが書かれた時代には目に見える切迫した危機があったでしょうが、今の時代も、また違った形の危機にさらされています。

同じ時代に生きている方に対して、それをいちいち挙げる必要もないでしょう。
ほぼ全ての方が、似たり寄ったりの不安と危惧を抱え、少なからぬ困難に直面しているはずです。

けれど、だからといって手を挙げて降参し、闇の中に落ち込んでいくのはごめんです。
少なくとも私は、太宰の言葉をぶつぶつ唱え、元気で絶望せず行きたいのです。


絶望とは何か。
セイレン・キェルケゴールは、有名な哲学書『死に至る病』の中で、その答えを書いています。

絶望とは死に至る病である

これを大げさだと言い切れないのは、おそらく本能的に、私たちはこの言葉の信憑性を理解しているからです。

何らかの事件が起こっても、外側から破滅する人はまずいません。
最後の崩壊は、内側から起こります。あと一歩のところでもう持ちこたえられなくなった時、人は抵抗をやめ、自らそこに落ちていきます。
太宰が幾度となく自殺を試みたように。

太宰のそれはおそらくパフォーマンスであり、不幸にも成功してしまった最後の心中も、きっと心の底から死を望んでなどいなかったでしょう。

けれど、いくらふりとはいえ、やはり死の真似事を繰り返すのは穏やかではなく、それが生きたいという願望の裏返しであったとしても、もっと他のやり方はあったはずです。


どれだけ懸命に祈っても、聞き届けられなかった願いはある。
けれど、今日一日だけの恵みを祈り、それが叶わなかったことは一度もない


あるキリスト者の告白にも見られる通り、願うのは一日だけの恵みで十分です。
両手にあまるほどの大望の成就よりも、まずは目の前の今日、私たちがその日を生き延びるだけの恵みを受け取れれば十分でしょう。

たった一日だけなら、誰でも幸せに生きられます。
昨日までがどれほど辛いものであったとしても、今日だけは全てに幸福を感じ、目の前に差し出された恵みを受け取ると誓いを立てられます。

一種のゲームのように、小さなプラスを集めていく感覚でもいいかもしれません。

〈日が照っている。鳥の声を聞いた。オレンジが美味しかった。好きな服を着た。髪型が上手くいった。誰かが自分を気にかけてくれた。電車に遅れなかった〉

「こんな当たり前のこと。こんなつまらないこと」
そんな言葉は、たった一日だけ封印します。
無理にポジティブな考え方をしなくとも、ちょっとした良いこと、嬉しいことを見つけ、味わうだけで完璧です。


そうして、平凡きわまる、何でもない日を過ごせただけでも大きな勝利です。

なぜなら、絶望にのまれませんでした。心の平衡を保ち、無事に一日を生き、たとえわずかでも、感謝すべきこと、明るいものを見つけることができたからです。

そしてその一日を、かすかに微笑んで終えられたなら、翌日も同じゲームを試してみます。

一日プレイしたのですから、もう一日続けたって支障はないはず。前日とまったく同じように、些細なものに目と心を向け、一日のありふれた喜びを味わいます。

その日もまた成功したなら、誰かからメダルや花はもらえなくても、すでにちょっとした変化が起こっていることに気がつくかもしれません。

よくわからなければ、次の日も続けてみます。
その次の日も。


いかにばからしく思えたとしても、絶望に勝つ手立ては他にはありません。
一発逆転の勝利を求め、いつ来るかわからないその時を暗闇の中でじっと待つより、自分でそこを出る方が良いはずです。

絶望を癒すには希望が必要です。
ほんの小さな希望ならば、誰かの手を借りずとも、自分でそれを見つけ、作り出せます。

そのためには、日々の恵みに目を開き、まずはその日を生ききること。
私は自分の経験から、その有効性を痛感します。

絶望について考え抜いたキェルケゴールも、こんな言葉を残しています。

失神した人に気付け薬やブランデーが必要なように、絶望した人を前にしたらこう叫ばねばならない。希望だ、すぐに希望を持って来てくれ!

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