追いつかない女

 英美里は足が速い。

 特に陸上競技をやっていたわけでもない。そういった選手と較べれば当然負けるのだが、その無気力な見た目よりもずっと速い。とても追いつけない。気づけば距離を離されている。

 シーツの中に身体が沈んでは浮き上がる。息をついては吸う。終わりが近いようで遠い。このままでいたいような、早く解放されたいような。もういい、と思いながらももう、ずっとこの緩やかな退屈さの中にいたい、ような。今私を抱いているのは、私を愛している男だし。ずっといい。ずっとマシ。優しい。快楽はある。マシ。終わってしまえば、何もない。何もないのだから。
 私の態度が冷淡でも、どんなに反応が鈍くても、男は諦めないし怯んだりもしない。解っている正解の部分を、私がくたくたになるまで責めて、弱りきったところでとろけた箇所に侵入して、私は何度も彼を奥まで受け入れた。彼はしつこかったし、辛抱強かったからどんなに時間が掛かっても私の面倒を最後までみた。
 私の気分が乗らない時はそのようにされ、まるで丁寧に乗せられた。

 男が持ってきたお菓子を、ひとりになってから食べた。パステルカラーの糖衣のかかったアーモンドチョコレートで、口に入れた瞬間は甘く、噛み砕けば苦み走ったビターチョコレートと深煎りのアーモンドの味が広がった。高級そうだった。最近、男は私の好みを探るように色々なお菓子を手土産に持ってくる。生クリームのケーキや、プリン、チーズタルトにシュークリーム。林檎の焼菓子。マカロン。キャラメル。甘いものは好きなので素直に嬉しい。手作りらしきドーナツを持ってきたこともあって、あれには少し驚いた。彼が自ら? まさかね? 謎。大好きなシナモンシュガーがまぶされていてサクふわ、すごく美味しかった。そんなことはおくびにも出さなかったけれど・・・・・・。
「もしかして、毎回手土産がお菓子は迷惑?」
 ある日の帰り際に彼は言った。玄関で私を抱き締め、本日最後のキスをした後だった。
「私、別に太っても平気だから」
 わけもなく言ったら彼はけらけらと笑った。普段そんなに表情豊かな男ではないけれど、笑う時はいつも子供のようだった。
「よかった。よくはないんだけど」
 困ったように、でも愛しそうに私を見つめた。これが居心地悪いったらない。ばつが悪い気持ちで、毎回、めげそうになる。私はいつものことながら目を逸らして反射的に身体を強張らせ、男はその腕から私を解放した。前に、猫みたいだね、と言われたことがある。可愛い小悪魔をそう表するのはよく聞くけれど、私の場合はそういう意味じゃない、動物としてのマジの猫。抱っこのあまり好かない猫。最初のうちはおとなしく抱かれているけれど、少ししたらその身を捩ってイヤイヤする。もうやだ降りると。猫の気持ちは解る気がする。お情けで仕方なく抱かれてやる気持ちも、その気持ちを全うする気もない無責任なわがままさも。
「じゃあ、また」
 男はそう言って帰って行った。もう慣れたもので、私のそんな態度にいちいち反応しない。
 アーモンドチョコレートは苦い。美味しいけれど、いっぱいは食べられない。袋に封をし直して、バスルームに行ってバスタブにお湯を溜めた。

 今日は実は寂しい気分だったので、玄関で男の顔を見たときすごくほっとした。この変な関係に感謝した。ちょっと自殺寸前の心地だったから。本当はセックスもしないでただ抱き合いたかった。理由も聞かずに慰めて欲しかった。終わったらまたほっとして、背中を彼に預けて横になっているのが心地よかった。帰らないで欲しいなと、身勝手に思った。
 美味しいご飯を食べたいなと久しぶりに思った。それもたらふく食べたい。ここの所あまり食べる気がせず、一日一食だった。風呂から上がったら階下の定食屋で何か食べよう。ポークジンジャーとか焼きカルビとか、そういうのがいい。
 一人で外食は滅多にしない。そんなにデートがしたかったのなら、あの男を誘えばよかったかもしれない。もう帰ってしまった。メールをしたら飛んできそうだけれど、飛んでこられてもどんな顔をしたらいいか解らないしそもそも向かい合って食事をするのが彼だと思うと水も喉を通らない気がする。
 そこまで思い至ったら来週のデートが本当に憂鬱になってきた。仮病を使うまでもなく本当に風邪を引くかもしれない。


 彼女のことは実はまだよく知らない。

 いつもつまらなそうだが、甘い菓子が好きらしいことは解ってきた。手土産は行為が終わると大抵、ぺろりと平らげる。シャワーは浴びず、トイレから戻るとコーヒーも淹れずにパイやらケーキやらをさっくりと食べるのだ。疲れて腹が減るのも解る。しかしそういうことでもないらしい。これは時々思い出して笑うのだが、初めて彼女の部屋に来たとき、明らかに二人分のタルトを持って来たのだ、僕は。箱にはチョコレートのタルトと苺のタルトが一切れずつだ。一目瞭然だ。それを彼女は、行為が終わってから横たわったまま一分程天井を見つめた後、そそくさと起き上がり、ベッドに腰掛けて手掴みでタルトを片付け始めた。僕は声も掛けられず、もそもそと食べる動物みたいで可愛い背中を見つめた。僕の視線に気付いた彼女は振り返り、既に齧り始めている二つ目のタルトを軽く掲げて『食べる?』と首を傾げた。不覚にも優しいなどと錯覚した。一口貰った方が親密になれるかなと一瞬、考えたが、そんなわけないとすぐに打ち消して全部食べて貰った。なんとなく、食べているときの彼女の背中はうきうきしていた。空腹なだけではないなと感じ、それから毎回、菓子を手土産にすることにした。感想はいつもないけれど、喜んでいると確信している。
 今日はアーモンドチョコレートにしてみたけれど、失敗だったかもしれない。いつものように手をつけなかった。ベッドで、いつまでも黙って僕に後ろから抱かれて横たわっていた。
「食べないの?」
 思わず訊いてしまった。彼女はすぐに答えず、数秒の間があった後、
「疲れたから」
 と、短く答えた。ごめんと言いそうになって、謝るのも違うだろうと思い直して黙った。代わりに少しだけ力を込めて、彼女を抱き直した。なんの効果もないどころか、不快にさせているだけかもしれないのに、とりあえずそうするしかなかった。
「大家さんに聞いた? 私、来週は生理だって」
「いや、何も。あの人とは滅多に連絡取らないよ」
 そう、と彼女は言い、また静かになった。
「もし体調が悪くなければ、来週も会いたいな」
 我ながら遠慮なく、僕は言った。
「・・・何をするの?」
 心から訝しげなその声音に思わず笑った。
「顔を見たいんだよ。何でもいい。出掛けてもいい、映画とか、食事とか」
 想像したら楽しくなってしまって、たまらず彼女の肩甲骨に頬を寄せた。頼むからNOと言わないで。
「体調が、良ければ」
 間があったが、それでも嬉しかった。喜びのハードルの低さに如何に異常な恋愛か解る。
「うん、出掛けよう。問題なければ、同じ時間に迎えに来る」
 そう言ってから彼女がどんどん小さくなるような気配がしたが気にしてられなかった。断られないようにうまくやろうと、それだけ決めた。


 リュウが変な女に入れ込んでいる。

 不良みたいな女だ。貧相な色の金髪の。ろくにカットに行ってないのが解る。重たげな前髪で顔が隠れることもあるが、まあ、美人かもしれない。そりゃリュウが惚れたくらいだから。でも不良だ。煙草を咥えて歩いているのをよく見る。よれよれのTシャツか、スタジャンにぶかぶかのデニムを履いて歩いている。
 対して、リュウはどうだ。あんなに身なりの整った坊ちゃんもなかなか見ない。顔もいい。品もいい。育ちもいい。あれじゃなくてもいいだろうあれじゃなくても。しかし彼は彼女にぞっこんなのだ、側で見ている方としては気が気じゃない。いつも冷静なやつだったのに、どうやら一世一代の恋らしい。
 女はスラムのアパートの一室に住んでいる。一週間のうち二日だけ出掛け、仕事をする。昼過ぎに出て行き、深夜に帰る。仕事自体は三時間で終わる。
「またアンタ」
 電話ボックスに凭れて彼女が出てくるのを窺っていた俺に、眠そうな眼で一瞥をくれる。樋川英美里。
「これから仕事?」
「ストーキングするならさせてやるから、仕事手伝って」
「リュウ、来た? 最近」
 後を追いながら訊いた。
「最近って・・・、一昨日だけど」
 怪訝な顔で俺に振向き、すぐ視線を進行方向に戻した。その話に興味などないと言うように。
「ふうん。やっぱそれかぁ」
 昨日、リュウに会った。毎日会っているが、昨日のリュウはいつもの彼と違った。無言でも機嫌の良さが伝わって来るくらい華やいだ空気を醸し出していた。静かにるんるん。良いことあったんだな・・・・・・、と周りは察し、そのままにしておいた。愛されている。俺は気になって仕方ないので訊いた。どんな良いことがあったのか。
 リュウは少し考えてから微笑して、言わない。と言った。
「やっぱそれかって何なの」
 煙草に火をつけながら樋川は呟いた。
「付き合うことにしたの? リュウと」
 俺の問いに樋川ははっきりと俺に向き直った。
「あの男はそんなこと言ってる訳?」
 切れてる切れてる。眠たそうな瞼から青い瞳が睨んでくる。
「違う違う! やたら機嫌良かったから良いことあったんだろうと思っただけで」
 そう言うと彼女は一瞬たじろいだ。
「・・・・・・何もない」
 そして俺の目を見ながらゆっくりと煙草を吸い、ゆっくりと吐いた。一気に疲れた顔をした。
「あのさ・・・、ちゃんと付き合ってやれないの、あいつと」
「仕事遅れるから行く」
「他にいる訳じゃないんだろ? あいつだって他にいないんだよ遊んでる女なんて。そういう男じゃないよリュウは。惚れっぽくもないし、あんたのこと本気なんだよ」
「あんたさ」
 再び樋川は立ち止まり、振り向きもせず、今度はやけに静かな声で言った。
「私がどういう人間か、想像してみたことある?」
「はー? 何だよそれ」
「あんたの大事な親友は不幸になるかもよって言ってんの」
「樋川、あんたさ」
 俺はツーステップでひらりと樋川の前に向き直った。紙のように白い顔で、樋川は俺を見る。
 きっと存外真面目な女なんだ。考えすぎているのだ。
「何も解ってないって言いたいんだったらそっくり返すぜ。俺だってね、リュウには面倒の一切ないラクな恋愛して欲しかったんだよ、相手もあんたじゃなくね。でもあんただって言うんだよ当人は。もうストーリーは始まってる訳。それだったらもう、はやくエンディングに持って行ってやった方があいつの為なんだよ。ハッピーだろうがバッドだろうがどんなエンディングだろうと俺にとってはどうでもいい、大事なのは後腐れがないことだけなの」
 樋川は表情も変えず黙って聞いていたが、小さく何か呟いて歩き出した。何と言ったのか聞こえなかったが、それ以上はついて行きづらく、足早に遠のく彼女の背中を見送った。


 本当に馬鹿だな・・・、というのが瀬野アキラに対する感想だった。

 あの男の親友とはとても思えない。てっきり自称親友かと思ったら、ちゃんと公認の親友だった。幼馴染だと言うが、決して腐れ縁などではなく、信頼し合っているというのだから解らないものだ。
「リュウ君のこと、結構好きなんじゃん」
「嫌いではないよ、最初から」
 言葉を選びながら私は言った。化繊工場の一室で、ミナと並んで刺繍をしている。呼ばれたので内容も解らず来たものの、今日の仕事はこれだった。刺繍なんて初めてやったけれど、紙切れ一枚の説明書を読んでみたらごく単純なパターンを糸で描くだけで、難しいことはなかった。どうやらクッションカバーになるものを作らされているらしいけれど、説明書通りならこんなものに金を払う者がいるのかと思える出来栄えになる。
 ミナとは、だいたいいつも同じ所に派遣される。身体は小さく、髪は巻き毛で、可愛らしい。いつも、私にはとても無理な甘い服を着ている。今日は赤いチェックのミニスカートに白いパフスリーブのブラウスだった。
「そうなのお? 欝陶しそうに話すからさ、嫌嫌付き合ってるのかと思った」
「付き合ってるんじゃないよ、向こうが会いたいっていうから日を決めて会ってるだけ、金銭のやりとりがないだけで仕事みたいなもの」
「なんでそういうことになるかなあ。解んないわぁ」
 ふふふとミナは笑う。あっ、間違えた、なんて言いながら。
 正確には、金銭のやりとりはある。アパートの大家の懐に入っている。それで家賃がチャラ。なんで大家とそんな爛れた関係なのかは、説明が面倒臭い。ただ、リュウは一発で理解し、疑問も反論も口にせず条件を飲んだ。理解と納得は別のことだ。
「セックスフレンド?」
「友達じゃないから。殆ど何も知らないし、向こうのこと」
「なんでそんなことしてるの」
「退屈だからかな。ボランティアって感じ?」
 家賃だってバイトの稼ぎで払えるのだ、二束三文だもの。
「写真ないのー?」
 ポチポチと針で布を刺す。糸がバッテンを連ねていく。
「写真、ないねぇ」
「顔が好みじゃないの?」
「いやぁ・・・・・・」
 ミナは手を休めて作業台に突っ伏し、私を上目遣いで見た。長い睫毛に縁取られた、くりくりとした茶色の瞳と目があう。
「ミナ、可愛いね」
「誤魔化さないで〜〜」
 本気で可愛い。女っていい。柔らかくて優しい。どちらかと言えば、女の方が好きだ。
「顔が良ければさ、付き合えるよね。中身がどんだけやばくても顔が好きならとりあえず付き合える」
「ははは」
 あの男とは会うようになって二ヶ月しか経ってない。性格は静かで思慮深い。しかし穏やかな人間かというと、そうじゃない気がする。そこだけはずっと警報が鳴っている。それがあの男の安心出来なさだ。それでも嘘をついているようにも見えない。あの親友の言う通り、本気なんだと思う。
「顔は、綺麗な顔、してるんだよね。すっきりした感じ」
 切れ長の眼は三白眼。鼻が高く、顎は細い。
「いいねいいね。英美里と並んだら美男美女じゃん。フー」
 ミナは完全に刺繍に飽きていた。まだ昼前だけれど小さな鞄から水筒とドーナツを取り出している。
「そんな、釣り合わないよ、とても。向こうは育ちのいいお坊ちゃんなんだよ」
「えー、じゃあ向こうがスラム育ちのギャングスタだったら付き合ってた訳?」
 一瞬、そういうことなのかな? と思い頭が立ち止まった。
「・・・どうかなぁ。気は楽だったかもね、正直、かなり悩んでるからさ。まずいことしてるかもって」
「まずいんだ?」
 ドーナツに齧り付くミナ。ふわんとシナモンの香りが漂った。
「開けちゃいけない箱開けようとしているっていうか」
「何怖がってるのか解んないけど、付き合っちゃった方が早くない? 駄目になるもんなら自然と駄目になるよ。あっ、それとも何、やばい性癖ある? 身の危険があるの?」
「優しいねー、ミナ」
「薬で死んだ友達いるからさぁ」
「違う違う、そういうのじゃない。怖いのはさ・・・、うん・・・、でも、身の危険かもね・・・なんか、暗殺されそう」

 ひとつ時計の針を進めただけで恐ろしいことが起こりうる。走りたくなんかないのに走らなきゃいけないこと、本当に忌々しい。   

                              

  

 


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