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イギリス留学をした国語教師の教育観がどう変化したか(留学総集編1)

ご無沙汰しております、しまです。
以前noteの記事を書いてから早nカ月…。コメントやメッセージで、留学をお考えの方や留学予定の方から様々応援いただいたのですが、全く近況を報告できずすみません。
コロナ下の状況で色々あったのですが、各所への配慮の結果SNSでは沈黙しておりました。

そんなことを言っているうちに日本に帰ってきました!
と言っても修士論文の提出は9月中旬なので、現在も留学中です。ただ、現在のこの状況下で色々ありまして、日本に早めに帰国してそこから学業=修士論文に取り組ませていただいています。

ということで、修士論文は絶賛執筆中ですが、身体から異国の香りが抜けきってしまわないうちに振り返りとして一年を総括してしまおうと思います。
まず今回は留学総集編1として、日本の高校国語教師であった私がイギリスで教育学修士課程で勉強したことで、教育に対する考えがどのように変わったのか記していこうと思います。

1.教育という行為をcriticalに見るようになった

まずこの'critical'という言葉、イギリスに留学された方は恐らくかなりの頻度で聞くのではないかと思います。授業内外で教授陣から'How to read critically ~" "How to write critically ~"と講義を受け、小課題でも'Critical Reflection'を書かされ、'Critical Perspectives on Learning and Teaching'なる授業を受け、エッセイのフィードバックでもとにかく事あるごとにCriticalityについて指摘されます。日本人の友達はそのCritical推しにややうんざりしてしまっていました。笑 いわゆるCritical Thinkingの'Critical'ですね。

Criticalの意味を理解することがまず第一歩でした。日本では例えば「批判的思考力」など「批判的」と訳されますが、そのニュアンスとは大分異なります。

とある教授はこう言いました。

Criticalとはnegativeではない。それは本当に著者が言いたいことを理解すること。他者の立場に自分を置くこと。なぜその人がそう感じるのかが分かるということ。
そこに問題はあるか、自分は賛同できるか、自分とその論文との繋がりは、本当に言いたいことは何なのか考えること。
読んでいくうちに自分のKnowledge baseが変化していく。読んだものと自分との、自分が前に読んだものとの関わりはどうか。根拠はあるのか。なぜ賛同する/しないのか説明できる。

私はCriticalな態度というのは「すべてを疑うこと」だと理解しました。これ、簡単に見えて実はかなり難しいことだと思います。権威者の誤ったツイートをRTしてしまったこと、親しい友達からきいた誤情報をソースを確認せずに他者に吹聴してしまったこと、自分もあります。特定の者の言うことだけ疑い、自分の支持する者のことは鵜呑みにすることは簡単ですが、そうでなく全てのものを疑うこと。その前提は何か、根拠は何か、自分はそれをどう受け取るのか。それを常に考えるのがcriticalityなのだと思います。あるいは、恩師である石原千秋氏の言葉を借りれば、ある物事・言説・論文などを「自分の座標軸に位置づけること」になるのかもしれません。
今まで学校という体制、教科書という体制、一斉授業という体制、校則という体制、様々な体制やシステムを受け入れることで教師として自分はその学校に順応してきたのだと思います。生徒も同様です。内部進学してきた子たちが疑問を抱かない価値観に対して、新入生が不思議に思う。でもいつしか新入生たちも「郷に従う」中で、あるいは「適応」する中で疑問を忘れていく。新米教師であった自分が数年という時間をかけて受け入れてしまった(でも本来受け入れるべきでなかった)体制やシステムを、日本の外から見直すいいきっかけになったと思います。
この教育に対するcriticalな態度が次のような考えを私にもたらしました。

2.批判するのも批判しないのも政治的行為であると考えるようになった

主語の大きいことを言うのはあまり好きではないのですが、「日本の人々は政治について話さない」とはよく聞く言説です。実際このアンケート結果では日本の人々が政治的話題を忌避する傾向があるとまとめられています。
これは私の感覚ですが、日本の教師も教室であまり政治的話題を取り上げないという印象があります。おそらく教育基本法で特定の政党に肩入れする教育が禁じられているからだと思いますが、それを避けるあまり政治全般について(社会科の授業など以外では)話をしないように思います。

フランスのインターナショナルスクールで授業見学させてもらったとき、日本人の先生は「政治的な話もどんどんする。日本人は教員のことをニュートラルな生き物だと思っているが、ニュートラルなどあり得ない。」と言っていました。体制批判も含め、自身の政治的意見を提示し、でもそれを生徒に押しつけるのではなく、それを基に生徒自身の考えを持つことを促していました。
同じくフランスで髪を切ってもらったときも、日本人の美容師さんは普通に政治の話題を出してきましたし、その話で様々盛り上がりました。

さらに、授業で読んだ論文でも多くそういう話が出てきました。

"education is already a part of politics, power, and authority" (p.14)
(Giroux, H. (2003). Public Pedagogy and the Politics of Resistance: Notes on a critical theory of educational struggle. Educational Philosophy and Theory, 35(1), 5-16.)

Critical pedagogyの論者Girouxの他にも、Feminist theoryで有名なbell hooksも、自由の実践としての学校も人種主義者的なステレオタイプを強化する学校も、等しく政治的な空間であると言っています(hooks, bell. (1994). Teaching to transgress : Education as the practice of freedom. New York: Routledge.)。
教師が生徒に知識を伝達する形式の教育を「預金型教育」と批判し、社会を変革するための問題提起型の教育を重要視したPaul Freireも、全ての教育は政治的であり、ニュートラルであることはあり得ないと言っています(Freire, P. (2000). Pedagogy of the oppressed. 30th anniversary ed. New York: Continuum. (Original work published 1970))。

今まで私は、今ある校則を推進もせず批判もしなければ、教員としてニュートラルであり得ると思っていました。政治の賛同もせず批判もしなければニュートラルであると思っていました。教科書の批判をせず授業することはニュートラルであると思っていました。
しかし、性別上の男子しかスラックスが履けず、女子しかスカートが履けず、自身の身体の性と心の性に違和感を持っている人が、自分がより選択したい制服を着れない校則を是として本当に良いのでしょうか。それを教員として異議申し立てしていかず、「今ある体制に迎合することで、既存の価値観の伝達・普及に参加すること」は本当にニュートラルな行為なのでしょうか。
男性作家が書いた男性主人公の作品ばかりが占める教科書を無批判に使用することは、「羅生門」「こころ」「山月記」「舞姫」「檸檬」ばかりを取り上げることで(男性目線と比べて)女性目線を授業の内容から排除することは本当にニュートラルな行為なのでしょうか。

こうした態度、ものの考え方が自分にとって一番大きな変化だったと思います。「沈黙は同意とみなす」なんて漫画の台詞で良く出てきますが、無批判や沈黙も一つの政治的表明であると考えるようになりました。
「沈黙は金」はあくまで文脈に依存するもので、そうでないことの方が多いのではないかと今は思います。「沈黙は(個人の利益的には)金」であっても「沈黙は(社会の利益的には)金ではない」ということ、あるいは「沈黙は(マジョリティには)金」であっても「沈黙は(マイノリティには)金ではない」ということが多いと思うのです。
だから私のTwitterを読んでいる人は、そういう政治的意図を含むツイート・RTが増えたと感じているはずです。それはこうした考えによるものです。「いじめを無視することがいじめに加担すること」と捉え得ることと「差別を無視することは差別に加担すること」の間には、その単位がクラスという目に見えやすい狭い空間であるか、社会という目に見えづらい広い空間であるかという差程度しかないと考えています。

西欧あるいはアメリカと比べて、日本はデモが起きないというのもよく言われいることだと思います。事実私は自分で体験したものだけでも、イギリスで大学によるストライキが2回、フランスで鉄道ストライキが3回とBLMに関するデモが1回ありました。イギリスはサッチャー政権以降遥かにデモが起きない国になったと言われているにも拘らずです。自分の身の回りで起こったものだけでこの数ですから、ニュース等で見聞きしたものはこの比ではありません。
日本でデモやストライキが起きないのは、憶測ですが「無批判であれば政治的にニュートラル」であり得ると考える人が多いからではないでしょうか。私は上記のように無批判も政治的表明と考えるようになりましたので、同じ政治的表明であれば無批判でいるよりも声を上げようと考える場が増えました。

ちょっと教育から話題は遠ざかってしまいましたが、この考え方は教師として生徒に関わる上でも、学校の一員として働く上でも、作品の読解の姿勢を考える上でも、教育者としても非常に重要なことです。
今まで、教師としての私は「生徒がより幸せでより豊かな人生を歩む手伝いをすること」を目標としていました。それは今でも変わりません。しかし、「生徒がより幸せでより豊かな人生を歩む」上では、彼らがより良い社会を作ろうと行動を起こす人になること、そのために何が「より良い社会なのか」考える人になることが肝要であると思うようになったのが変化です。

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私が最近気に掛けているのは、この18歳意識調査の結果です(日本財団)。特に「自分で国や社会を変えられると思う」人の割合が圧倒的に他国よりも低いことです。自身の国の将来が明るくないと思っている18歳が多いからかもしれませんが(2枚目)、国や社会を変革することができない・しようと思わない無力感を、社会に出る前から彼らが持ってしまっているということは非常に悩ましいことだと思います。自己肯定感・問題意識・モチベーション等の面で彼らを育ててきた教育や社会に上手くいっていない部分があるように思います。
学校で何か小さいことでも自分が変えられたという成功体験、学校の制度など組織をより良く変えようと試みた経験を持てればもう少し良い方向に持って行かせることができるのでしょうか。具体的に彼らが何かに働きかけるという体験を作るべきなのでしょうか。
現状をどう変えていけるのかはまだまだ思案中です。自分がイギリスの大学院で様々な問題について知り、異なる環境からやってきたクラスメイトとディスカッションをし、他国との比較を通して自国を知り、エッセイを書くことで自分の考えをまとめ、今ある問題を変えていこうと思うようになったのと同様に、何か自分の生徒たちにも出来ないのかと考えています。

なんだか今回の記事は大枠について書き続けてしまいました。もっと細かい学び、具体的かつ実践的な学びも大いにあったのですが、とにかくまずこの大枠の話を避けて通っては留学生活の学びが伝わらないように思ったのです。

職場に復帰して上記の諸々を、自分が消化した形で伝えていったときに、「政治的に危ない過激な教師になった」と思われないことを祈っています。。笑 まあ私は教師はラディカルで良いと思っているのですが…。もちろん自分の考えを押しつけることはいけないですね。そういう意味では、生徒にcriticalになることを教えることで、教師も自分の考えを安全に表明できるようになるかもしれません。生徒が無批判に全て受け入れてしまう環境では、自分の思想を提示して全て受け入れられてしまったら困りますからね。
知人の話を様々聞いていると、そういう柵(しがらみ)があまり無かったり、生徒に多様な価値観を受け入れる土壌があったりという意味では、インターナショナルスクールなどの環境は羨ましいですね。

もう少し具体的にどう教育について学びがあったのかは、次回また修士論文の隙間を見つけて書こうと思います。大真面目な文章を長々とお読みいただき、ありがとうございました。
多分大部分の人が想定するような学び(より効果的な授業法とか?効果的ってなんだか分かりませんが)と異なりすみません。実践的な話は次回必ず!
留学するにあたってかけた年月とお金は中々多くの教師が簡単に費やせるものではないと思うので、少しでもそのおすそ分けが出来たら幸いです。

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