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苦しみと成長を与える教育

エッセイのフィードバックを貰いました。
12月上旬に書いたときもそうなんですが、厳しいフィードバックを貰うとnoteを書きたくなるんですよ。
多分、古典的条件付け(e.g.パブロフの犬)をされている訳ではないと思うんですけどね。

科目によってフィードバックをくれる教員が異なり、片方A先生は優しく前向きなコメントをくれるのですが、B先生は手厳しいけれどもクリティカル(致命傷という意味での笑)なコメントをくれます。よって、B先生のフィードバックが来ると私はnoteを書くわけです。

自分が全力をかけて頑張ったものが、想定したような方向で受け入れられないと中々苦しいのです。
でも、これって成長の種だよなーと心の中で喜ぶ自分もいるわけです。
今日は、苦しみと成長と教育の関係について思う所を書いていこうかと思います。

成長について

ここでマズローの欲求階層説の図を引っ張ってきます。

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(出典:https://b-psychol.com/life/dificiency/)

私は高校卒業くらいまで、欠乏欲求で動いていた口です。ちなみに、当時の自分のことを思い出すと恥ずかしいことの方が多いです。
今は幸い、有り難い周りの方々に支えられつつ、成長欲求のところにいると勝手に考えています。
(実際は、複数の段階を跨ぐこともあるのだと思います。自己実現欲求と承認欲求が混ざる=成長することで最高の自分になりたいし、それによって他者から認められたい、という人も多いのではないかと思います。)

私の勝手な持論では、成長欲求が強い人(上昇志向という言葉はガツガツしていて少し自分の意味したいものとずれる気がする)は大きく分けて2種類いる気がしています。

1.何か目標があって、それに向けて努力をしている人(特定の職業に就きたい、モテたい、お金持ちになりたいなどなど)
2.成長すること自体が楽しくて努力をしている人(勉強の過程や何かが出来るようになることが楽しくて努力をする人、自分を磨くことが好きな人)

私は今は後者かなと考えています。どうも昔から、「何歳までにこれをする」とか、「絶対こういう人になりたい」とか、絶対的な目標を定めて努力して実現するって出来ないんですよ。
私、年始の目標も基本達成できなかったり、そもそも忘れたりします。段々と曖昧な目標を立てるようになって、確か去年は「良い出汁が出る男になる」とかだった気がします。笑
逆に、知り合いには「総理大臣になる」という高校時の目標を持って今議員に片足突っ込んでいる人もいて、尊敬します。

ただ、逆に成長を楽しめるのは自分の長所かとも思っています。停滞するのが嫌なのです。
そもそも今イギリスにいるのも、5年教師を務めて、教科内全学年全科目教えて、担任も一周して、全体像が大方見えてしまったので、もっと自分が成長できる環境に行きたいと思ったのも大きな理由です。

成長と教育について

過去の自分の教育遍歴を思い出してみると、幸い受験というものを(二度の大学院受験以外)ほとんどしてこなかったこともあって、自由に学びたいことを学びたいペースで、過度な負荷をかけずに学んでくることが出来たように思います。
ただ、加圧トレーニング(したことない)が大きな成果をもたらしてくれるのと同様に、負荷がかかった状況の方が成長するとも思います。
どんな状況にいても自ら加圧する(敢えて負荷のかかる状況を作って、苦しんで成長する)ということができる人も知り合いにはいて、尊敬します。中学時に「迷ったときは困難な道を選べ」と教えてくれた先輩もいて、今もその言葉は覚えています。ザ・ストイックな先輩です。

過去を思い出してみると、「負荷かかっているけれども、成長しているなー」という実感が持てたときは下記の通り。
1.早稲田大学院時代
2.教員一年目時代
3.今(イギリス大学院時代)

恐らく、その教育の特徴は下記の通り。

PDCAサイクルがどぅるどぅる回っている
e.g.1 教員:Plan授業計画→Do授業実施→Check生徒の反応・テストの点数・授業評価→Act反省・改善点考える→次の授業…
e.g.2 今:PlanエッセイOutline構想→Doエッセイ執筆→Check教師からのフィードバック→Act反省・改善点考える→エッセイ書き直し…

Checkが手厳しい&回数が多い e.g.早稲田時代にI原先生に相当手厳しく叩かれた思い出…

自分のモチベーションが高い=自分の理想が高い=理想と現実のギャップが際立つ=C→A→P→Dのサイクルで自分の壁を打ち破らなくてはならない

ちなみに、教育評価の授業を受けていて面白かったのは、下記内容を立証した研究でした。

生徒にフィードバックを返す際…
a)コメントのみで返す
b)コメント+評価で返す
c)評価のみで返す
の3パターンを実施した場合、a)コメントのみのフィードバックを受けた生徒が一番が伸びる

評価をつけてしまうと、そこだけ見て、フィードバックしたコメントの内容が次に活かされないのですよね。確かにと思います。

こうして自分の過去を「成長」と「苦しみ」とともに振り返ってみると、教師としても、生徒にたくさんフィードバックしてあげなければいけないなと思います。
たくさん書かせて、コメントを付して、また返して…という繰り返しで、涵養されていく力がたくさんあるのでしょうね。
生徒には、「添削の朱は、血の赤ではなく愛情の赤だと思ってください」と言ってきました。笑 学習者を苦しめるために添削をしているのではなく、学習者のさらなる成長を願って添削をしているのだということです。
だから、自分が受けたフィードバックも愛情だと思って、改善に励もうと思います。

そんなわけで、一度書いたエッセイの書き直しは精神的にしんどいし、旅行や現授業のリーディングや様々な予定はあるし、修士論文も絶賛開始し始めていますが、後で思い返したときに、これが自分の成長に繋がったんだと思えるように頑張ります。
(毎回私のnoteの終着点は「エッセイ頑張ります」という所にしかならない)

二回連続エッセイについて書いてしまったので、次回は別のトピックについて書きたいですね。
・自分の考える文学教育
・イギリスお買い物事情
のすっごい極端などちらかについて書くかもしれません?

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