見出し画像

ストレスと掛け算と大人

ゴールデンウィーク明けは出社拒否や退社が相次ぐという。
いわゆる”五月病”というやつなのだろうか。やる気がなくなって、精神的にもすり減った中で起こるこの五月病は適応障害という分野にあるらしく、特別なものではないというが、誰にでも起こりうることだという。
満員電車、朝のラッシュ、残業代も出ない、人間関係に悩む、飲み会という非建設的な集まりに誘われ、愚痴を聞かされる。
気持ちは十二分にわかるし、そりゃやめたくなるわなというもののオンパレード。
だが今回はそのことについて書こうとしているわけではない。

僕が小学生の頃、掛け算がものすごくできなかった。
何せ指で数えても足りないし、覚えられない。父親には夜遅くまで、とにかくできるまで徹底的にやらされた。
なんなら泣きながら、泣こうが何しようができるまでやらされたことを今でも鮮明に覚えている。
そんな子は1年経たずに掛け算ができるようになった。

そんな子が大人になり、様々な”初めて”を経験しつつ、ストレスで表される状態に悩まされるようになる。入団しかけのチームと連絡がつかなくなり、結局話がなくなったこと。いじめをこれでもかと受けること。ここでは書けないことを受験前にやられたこと。勉強が出来なければ、国公立大学に行けなければ人間ではないと正面から言われたこと。
どれもなんで...や、そんなことを言われなければいけないのか?と強烈に怒りが湧いて来たり、負の感情がついてくるものばかり。
しまいには精神的なカウンセリングを受けたこともある。

掛け算で泣きつつもできるようになったこと。
いじめを学校にいながら乗り越えたこと。
勉強ができないことで理不尽なことを言われ、あからさまに人間として見られなくなったこと。
どれもストレスを感じていただろうが、僕には1番下のことが特にしんどくて、今もそれで悩むことがある。

なぜだろうか。

僕はその時々のことを振り返った時、1つの答えのようなものを見つけた。
それは自分を見てくれる人が自分のそばにいてくれるかどうかだ。
掛け算は親とつきっきりで、いじめも親や先生がうまく対応してくれたし、僕もその時に今も尊敬している人との出会いがあって少し頑張れた。
でも人間として扱われなくなった学生の一時期は、もちろんいろんなことが重なったとは思うけど、誰もそばにはいなかった。
だから家に帰っても何も言えなかったし、学校でもずーっと1人だった。
友達どころか1年で人と話した数も数えられるくらい。
だから本当に辛かったし、今も思い出したくない。

今世間では自己啓発本やメディア、SNSを通じて、こうしたらいい!そんなものは精神的に弱い!最近の若者はな...のオンパレード。
本当に精神的に来ている人は、そんな精神的強者の”黒帯”のような物語やお話を聞いたところで何にも活かせることなんてない。
だからこそ人とのつながりが大事になったりする。

先日気になったツイート。
人という字をよく見てみるとそう思える。
かの有名な金八先生も「人と人とが支え合っているということ」と言っていた。
僕は「しんどそうにしている左側の文字を支えるために右側の文字がいる」と捉えられるのではと思った。右側の文字こそストレスや精神的に苦しんでいる人を目の前にした時に周りができる「支える」ということ。
それはしんどくなっている人が”自己否定”しないようにするため。

あ~俺のせいだ、何でこんなことが出来ないんだ、俺はダメかもしれない...って思わせないようにするためだ。
だから人が人を励ますときには「大丈夫だよ」「開き直ればいい」「全然OK!!」と言うのだと思う。
もし友達がいなくても、絶対的に自己否定は避けるべきだと思う。
どんどんドツボにはまっていくし、気を取られてしまう。

差別がはびこり、顔や年収が簡単にスペックで評価され、責任転嫁だらけのこの時代に本当の意味で苦しんで、人というものを理解できている人はほとんどいない。でも、人に気持ちを理解して支えてくれる人もいる。そういう人は過去にいじめや辛い経験をしてきた人ばかりだと思う。

今日もトレーニングにジムへ行くと、「めっちゃ疲れてません?」と声をかけてくれた人がいる。その人は僕がしんどい時期も、少し体の状態がおかしかった時にいろいろアドバイスしてくれた人だ。
その人もまた過去にいろいろな経験をしている。
僕にはゴールデンウィークもないし、やることは変わらない。
でもそうやって見てくれる人がいたり、自己否定しないように考える時間こそ、何物にも代えがたいものなのかなと思う。

それを簡単に精神が弱いで片づけられたら、たまったもんじゃない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?