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『きのうの神さま』 西川美和

医者というキーワードで書かれた5編から成る、傑作揃いの短編集だ。

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「1983年のほたる」の主人公は、田舎の小さな村に住む小学6年の少女。
彼女は自ら希望して、村からバスに乗って市内の塾に通っている。

学校の友だちのことが嫌いなわけじゃない。家族のことも。村のことも。見下したりなんかしていない。たぶん。けれどこの先、全く変わりばえのしない人たちと、全く変わりばえのしない風景を見て、お姉ちゃんたちが過ごしてきた後を全く同じようにたどるのは、わたしはいやだと思っている。

塾の帰りのバスは、いつも同じ運転手が担当している。お互いの存在は認識し合っていると感じつつも、顔見知りというような親しい間柄ではない。
そんな運転手がある日の帰りの車内で、少女に話しかけてくる。その語るところによれば、彼の姉が昔、少女の受験しようとしている中高一貫の進学校に通っていて、医者を目指していたが、高校在学中に亡くなってしまったという。

少女は無事入学試験に合格し、その進学校の生徒となるのだが、バスの運転手との交流はそれきりであり、彼の姉が亡くなったいきさつについても知らないままになったという少女の語りで、小説は唐突なような不思議な終わり方をする。

ファミレスの後ろの席の会話が気になったけれどほんの輪郭しか聞けないままで、顔も分からないそんな他人のエピソードが後々になってもひょっこり思い出されたりするのに似た、妙に後を引くものが残る一編だ。
そんな、ついもっと知りたくなる話というのは、このバスの運転手の姉の話しかり、決まってハッピーな話ではなく不幸や災難の話ではないだろうか。
決して好き好んで聞きたい話ではなく、むしろ聞くのは苦痛なのにアンテナが反応してしまうのはなぜか。
人の不幸は蜜の味、というような言われがちな理由ではなく、そこには何か、リスクの情報は集めておきたいという本能的なものがあるのではないか。
奇妙な読後感から、そんな横道にそれた分析をついしてしまった。

下手な分析癖が芽生えるといった影響を知らず受けてしまうほどに、著者の作品における人間の観察は精密だ。
その観察眼は次の作品「ありの行列」にも表れている。

離島の診療所で、医師が学会で不在の数日間の穴埋めをすることになった主人公。
診療所の老医師は、引き継ぎの説明を兼ねて、呼び出された患者宅に主人公を連れて行く。

「お、座っとんな」
「キューッとするわ、今日は朝から」
「顔色ええよ。まだ大丈夫や。どしてもしんどかったら後でおいで」
「歳が歳やもんな。こんな歳んなって、欲が深いなあ。まだ生きようとしてる」
「おう、生きとけ」

道で出会った老人との何気ない会話が何ともリアルで、この離島に住む老人達と医師との繋がり方、彼らにとって診療所の医者がどのような存在であるかがそこから読み取れる。

医師を呼び出したのは、老衰の段階にある老人の妻だった。
今にも死ぬかもしれないが明日も生きているかもしれない、そんな夫に対する愚痴を、滔々と繰り出す妻。そんな愚痴ももはやいつものことのようである。

つまりは、夫が死へ向かっているということが、彼女らにとっては、襟をただし、態度を改めるような「非自然」「非日常」ではないということだ。それが彼らの日常であり、最後まで、根強い日常に包まれながら、この老人はなだらかに死へ向かっているのである。

人生の最後の日々を生きている夫と、そんな夫への愚痴が止まらない妻。その光景はわりとすんなり想像できるくらいありふれているものでも、そう解析されると改めて「なるほど」と思う。

情感溢れる描写と質の良いコメディーの要素が効いた、心に残る作品だ。

続く「ノミの愛情」は、毛色ががらりと変わる。
尊敬される小児心臓外科医である夫が看護士たちをホームパーティに招く。如才なくスマートな接待。そんな夫の非の打ちどころのなさを妻が語るのだが、そこにはうすら寒さが感じられる。
完璧な外面の内側で崩壊しているのは夫か妻か。
背筋が寒くなるホラー小説だ。

医者の父を持つ兄と弟を描いた「ディア・ドクター」は、これぞ文学と言いたくなる趣深い作品で、私は本書の中でこちらが一番好きだ。
泣きと笑いの合わせ技も鮮やかな傑作である。

「満月の代弁者」は、再び僻地の診療所を舞台にした物語。
さびれた土地での、現代医療の主流とはかけ離れた医療の有り様が、「ありの行列」では牧歌的に描かれていたが、こちらではより鋭く書かれる。
土地の患者が求めるのは完治ではなく安心。医者に求められるのは気兼ねなくわがままをぶつけられる存在であること。その土地に合った「いい先生」になることへの消化できない思いが医師の中には膨らむ。
東京での仕事を諦めて土地に戻ったまだ若い女性のエピソードは、看取りと人生を天秤にかけざるを得ない苦悩が重い。きれいごとを言いかける年嵩の新米医師を、若い前任医師が後ろから膝で蹴っていさめるシーンが鮮烈だ。
綿密な取材も窺い知れる一作である。

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著者は高い評価を得ている映画監督・脚本家だが、その小説は脚本力に頼った情景勝負のものでは全くない。脱帽するほど熟成された文学作品だ。
「映画監督だから小説を書いてもすごい」のではなく、「この才能の持ち主だからあの映画が撮れるしこの小説が書ける」のだ。
その稀有な才能を心から賞賛したい。