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ベトナム歴史秘話:中国皇帝から売られた喧嘩を買って殺された逸話の真相に迫る!

日本でも関心を集めている中越関係。ベトナムで語られているその歴史の中には、「北京での謁見時、中国皇帝からの侮辱に対して国の誇りを守るために堂々と言い返して殺された、あるベトナム使節代表の話」があります。しかしこれは本当に起きた出来事なのでしょうか?

この話の背景にある江戸時代の日本人でさえも知っていた中越関係の故事から、なぜ殺された話が歴史となったのか、そこにはどんな理由・時代背景があるのかについてを今回は紹介します。

1. それは、古代の中越関係から始まった

ベトナムの歴史は、半ば伝説上の存在とも言われる建国の祖「フン王」による文郎国(紀元前2879年~紀元前258年)の後、紀元前2~3世紀頃に中国・古蜀からの亡命者とも言われる蜀泮(のちの安陽王)が、ベトナム北部の紅河デルタに甌雒(オーラック)国を建国しました。しかし現在の中国・広東省を支配していた南越国によって紀元前179年には滅ぼされます。

そしてこの南越国も漢王朝(前漢)の武帝によって前111年に滅ぼされ、交趾郡・九真郡・日南郡などが設置されたことは、世界史などで学んだことがある人もいるでしょう。

余談ですが19世紀、グエン朝が清王朝へ「南越」という国号を欲したのに「越南(ベトナム)」が与えられたのには、南越という国が漢(中華)に対して反抗したという歴史を踏まえたから・・・つまり同じような野心を抱かせないようにしたとも言われます。

さて、この第一次北属期と呼ばれる中国支配の時代は、約150年後、ある英雄の登場でいったん終わることになります。

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紀元40年、悪政や徴税権に対する揉め事から漢王朝(後漢)に対しての反乱が起きました。徵側と徵貳という徴姉妹(ハイ・バ・チュン。ハイ=2、バ=敬称、チュン=徴といった意味)による反乱は、地場の諸侯なども加わりあっという間に現地軍で対処できる状況では無くなりました。

そこで漢は名将「馬援」を送り込みます。先祖に春秋戦国時代の名将「趙奢」を持ち(つまり長平の戦いで大失敗した息子の趙括も同じ先祖(苦笑))、その子孫には三国志で劉備に仕えた馬超もいるという家系です。後に62歳で自ら馬に乗って出陣しようとしたことから、矍鑠(かくしゃく。老いても元気であること)という故事成語を生んだ人物でもあります。

馬援

中国にある名将・馬援の銅像

さすがの徴姉妹も馬援将軍には勝てませんでした。徴姉妹は処刑されますがベトナムの歴史上で英雄となり、今も各地にあるハイバーチュン通りとして名を残します。そして馬援は北部ベトナムを平定すると、漢王朝の領土の最南端を明示する国境標識を置きます。それが「馬援銅柱」と呼ばれる建造物です。

馬援銅柱

馬援と銅柱、中国ではベトナム平定の英雄でもある

そして馬援は、この銅でできた柱が現地人によって破壊されることが無いように「銅柱が壊されたり折れたりすることがあれば交趾(ベトナム)は滅ぶ」と天に祈りを捧げたことから、現地人はそれを恐れて壊れないように銅柱の周りを石積みをしていき、いつしか小山の様になったとも言われます。

溪洲铜柱

940年に作られた溪洲铜柱、馬援銅柱は見つかっていない

そして銅柱は、ベトナムが中国の領土内であったというシンボルとして漢字文化圏において広く知られていくことになります。そう、例えば日本においても!

2. 江戸時代の日本人でさえも知っていた馬援銅柱

馬援銅柱がどのくらい有名だったのかを知る手掛かりとして、江戸時代に書かれた文献にも書かれているのを今回見つけ出しました。18世紀末「あんなん国酔夢譚」で書いた様に大乗丸の乗組員たちが日本へ帰国できたことから、北方探検で有名な近藤重蔵がその経緯を記録した「安南紀略藁」内において、これまでの日越関係及び、ベトナムの歴史についても書かれていました。

江戸時代の記録で馬援銅柱の部分のみ(縦845)

後漢の建武十六年(西暦40年)。女子徴側(チュン姉妹の片方)反、馬援討平之。立銅柱とあり、(馬)援誓云。銅柱折交趾滅についても書かれている

上記だけでありません。例えば、江戸時代には中国歴代王朝の支配領域を地図で表した現代の歴史ムック本(イラスト本)の様なモノが作られていたのをご存知でしょうか?

東漢郡国図

日本国立国会図書館で公開。寛政元年(1789年)「唐土歴代州郡沿革地図」より、東漢(後漢)の郡国図。この南部、現ベトナム北部の付近を見ると

馬援立銅柱

「馬援立銅柱」とキッチリ書かれています。

以上の様に一部とはいえ、中国史を学んだ知識人なら江戸時代の日本人でさえも知っていたという「馬援銅柱」の故事。このことからも中越両国では、いかに知名度が高く重要な歴史的出来事であったのかが分かると思います。

そして前置きが長くなりましたが、これまでの事を踏まえたうえで「馬援銅柱」が作られてから約1600年後のことが、今回の記事の舞台になります。

3. 中国皇帝から売られた喧嘩を買った男

17世紀前半、中国は明王朝の末期、ベトナムは後黎朝となっていました。後黎朝は、明朝の冊封を受けており(つまり形式上は、明朝の臣下であるものの独立国)、定期的に使節を送って朝貢もしていた時代です。

後黎朝の高級官吏登用試験である科挙に第3位の成績(探花)で合格した江文明(Giang Văn Minh)は、1637年に使節団の正使となって後黎朝から明に派遣され、明朝最後の皇帝である崇禎帝(すうていてい)に謁見します。そこで事件は起きました。まず、崇禎帝は、使節に対してこう告げたと言います。

銅柱至今苔已緑

銅柱は、今や苔が生えて緑色だ。意訳すると以下のような意味になります。ベトナムは、大昔から中国の領土内であり、その証拠物でもある馬援銅柱は苔むして緑色となっている=それだけ長い月日の間、中国の支配下にあるぞ。

相手は皇帝とはいえ、独立国家である後黎朝を代表してやってきた使節に対していきなり侮辱してきた、端的に言えば喧嘩を売ってきたわけです。それに対して江文明は堂々とこう答えます。

藤江自古血猶紅

白藤江は、昔から血が流れ今もなお紅く染まっている。意訳すると以下のような意味になります。白藤江という川は、ベトナムを侵略しようとしてきた中国人の血で大昔から今なお紅く染まり続けている。明朝も再び侵略しようとするのなら同じ様に痛い目にあうぞ。

この回答が凄いのは、皇帝の発言に対して同じ漢字7文字で回答し、最初2文字が場所を表す”銅柱”に対し同じく”藤江”、4文字目が時を表す”今”に対し同じく”古”、最後7文字目に色を表す”緑”に対して同じく”紅”を置いており、さらに両国の歴史的背景を知らないと全く理解できないハイコンテキストな内容を即答している点です。さすが当時一流の教養人、科挙3位の探花といえる回答。

さて我々は探花では無いので補足説明をしましょう。白藤江、バックダン川(Sông Đá Bạch)は、中越国境にも近いベトナム北部でハイフォンの北に流れる川です。

この謁見があった1637年までにこの川では、計3回の中越間の戦い「白藤江の戦い(バクダン川の戦い)」があったとされます。

1回目は、938年。ベトナム(呉朝)と中国(南漢)が戦い、呉朝が勝って計1000年近い北属期(中国支配)が終わりベトナム独立へと繋がっていきます。なおベトナム側の近世歴史書上は、この呉朝からが中国より独立したとなっています。

2回目は、981年。ベトナム(前黎朝)と中国(北宋)が戦い、一進一退となったものの最終的に宋軍が引き上げることになり、結果的に撃退に成功します。

3回目は、1288年。ベトナム(陳朝)と中国(元、モンゴル)が戦いは有名で、陳興道(チャン・フン・ダオ)の活躍で元軍は壊滅。日本の元寇にも影響を与えたと言われる大勝利でした。

白藤江の戦い

これ以外にも現使節が所属する後黎朝の初代皇帝である黎利(レ・ロイ)は、1406年永楽帝によるベトナム侵攻に対して10年に及ぶ明王朝への抵抗運動を行い、最終的に明王朝をベトナムから撤退させて再び独立を成し遂げるなど、両国間では数多くの戦いが行われ血が流されてきていました。別の言い方をすれば、ベトナムは自らも血を流して中国からの独立を勝ち取ってきており、その象徴が白藤江だったわけです。江文明の発言は、以上を踏まえてその覚悟を示した発言でもありました。

たとえ相手が皇帝とはいえ、今もお前たちの国は俺の領土内だ・・・という侮辱には、ベトナム代表として堂々と国の誇りをかけて受けて立った(つまり売られた喧嘩を買った)江文明。

崇禎帝

崇禎帝(在位:1627年~1644年)

しかし相手は、最終的に疑心暗鬼で優秀な配下・袁崇煥を殺してしまい明王朝を滅亡させたという崇禎帝です。いったんはベトナムに人ありと評価したものの、後に気が変わって激怒した皇帝は、江文明を処刑して遺体を水銀と高麗人参で処理し(つまり腹を引き裂くような惨殺をされた?)、使節団にベトナムまで持ち帰らせました。

ベトナムに戻った彼の遺体は、後黎朝の皇帝「神宗」より

使不辱君命 可謂千古英雄

他所の国へ使いに行っても君主の名をはずかしめない、こういう人こそ史上最高の英雄の一人ということができる

という栄誉の言葉を賜ったとされます。

この出来事は、現代ベトナムの子供向けの本や教科書にも載っている様(筆者は未確認)で、また江文明の家がハノイ近郊、ソンタイのドゥオンラム村にあることからそこが観光地化されており、ベトナム地方自治体(ソンタイ)の運営するWEBサイトにも歴史的事実として掲載されています。

ソンタイのWEB

sontay.hanoi.gov.vnのWEBサイトより

またZingなどのベトナム語WEBメディアや、タンロン遺産保護センター(ハノイ)でも、歴史的事実として紹介されています。

とまぁ普通のベトナム歴史紹介ならここで終了ですが、この記事は、ここからが本題となります。

はたしてこれは、本当に起きた出来事=歴史的事実なのでしょうか?

5. 公式歴史書には出てこない出来事が歴史になった

独立国ベトナムの誇りを守るために中国皇帝に対して堂々と応対して命を失った、そんな出来事なら同時代の記録や、両国の王朝が作った公式の歴史書に当然記載されていてもおかしくはない出来事です。しかしこの出来事についての同時代の公式記載は無いと言われています。

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例えば同時代に書かれたベトナム側の公式歴史書である「大越史記全書」本紀續編卷之十八 黎皇朝紀の内容が掲載されているWEBサイトを見つけましたが、そこには、

丁丑,陽和三年(明崇禎十年)[1637]
遣正使阮惟暁,江文明,副使阮光明,陳沂,阮評,申珪等二部,如明歳貢。命陳有禮,楊致澤,阮壽春,范福慶,阮光岳等往關上候命。

とだけあり、江文明が崇禎帝に会ったことは事実ですが、言い争って国家の誇りを守るために殺されたことなどが書かれていません。また中国側の公式歴史書である明史本紀第二十三 莊烈帝(崇禎帝のこと)においても

十年春正月辛丑朔,(中略)是年,安南、琉球入貢。

とだけあって朝貢の事実だけしか書かれていませんし、明とベトナム(安南)との外交関係だけを取り上げた『明史』卷三百二十一 列傳第二百九 外國二 安南においても今回の出来事は書かれていません。

ちなみに明史は次の清の時代に書かれており、こういった正史の慣例として前王朝にとって都合が悪いことが書かれることが多く、特に崇禎帝は国を滅ぼしたわけですから、あのような出来事があったのなら暗君ぶりを示す証拠として当然書かれていてもおかしくはないでしょう。しかし記述が無いのは、本当に無かったことだからではないのでしょうか?

明史

もちろん中国の歴史書を参考にして1790年代に書かれた日本の「安南紀略藁」内のベトナム史にもそんな出来事は書かれていませんでした。

また当時の明王朝の置かれた状況は、北方から女真族の後金(後の清王朝)が攻めてくるのを万里の長城や山海関で必死に守っている一方、国内では李自成や張献忠などが反乱を起こしてまさに内憂外患な状況です。

1637年の状況。Ming=明、Qing=後金、オレンジが反乱軍支配地

そんな状況下でせっかくやってきた使節を惨殺し、新たに南からベトナムを敵対させる理由は無いはずです。

では、この殺された云々の話はいったいどこから出てきたのでしょうか?その史料も今回見つけ出しました。事件から約200年後の1849年の書かれた江氏家譜(Giang Thị gia phả)という記録です。ベトナムの国立図書館(National Library of Vietnam)のWEBで一般公開されています。

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12ページ目。左端から3行目より銅柱と藤江の話。

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13ページ目。右から3~4行が今回の事で「神宗」から賜った言葉

この文書においては、上記出来事がはっきりと書かれています。では、この「江氏家譜」とは、どういう史料なのか。それは、江という一族が先祖の活躍を記録としてまとめたものになります。自分たちの先祖には、こんな立派な人がいた、こんな業績を上げた、こんな由緒正しい家柄なんだという記録です。

このお家自慢に書かれていたことがなぜベトナムで有名になったのでしょうか?それは1976年にTy Văn hóa Hà Sơn Bình 社によって発行された書籍「故郷の有名な人々(Danh nhân quê hương)第3章(tập 3)」に掲載された為と言われています。

6. 歴史はこのように作られた?

そこには、以下のようなことがあったのではないかと推測してみました。

1849年、江一族が自分たちの先祖の業績を称えるために200年前の先祖である江文明の業績を”かなり盛って”書いたのではないでしょうか。江文明が使節として中国へ行ったことは事実で、おそらく中国で病死して帰国したと推測されますが、暗君とされる崇禎帝相手に自国の誇りを守るため主張し惨殺されたこととした。もしくはほぼ同時代の極悪宦官・魏忠賢(敵対した相手の生皮を剥くなどの残虐行為で知られる)の故事も参照し、それを崇禎帝と重ね合わせたのかもしれません。

また後黎朝の皇帝「神宗」から賜ったという「使不辱君命 可謂千古英雄」についても、これは論語の有名な一節である

使於四方不辱君命、可謂士矣

という言葉を改変して作ったのだと考えられます。意味はほぼ同じでこういう人こそ英雄だ!ではなく、こういう人こそ「士」(立派な男子。独立した成年男子)であるという違いです。

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江文明の墓「千古英雄」と書かれている

仮に「神宗」からその言葉をもらっていたのは本当だったとしても、もらった経緯まで勝手に作って良いのかについては、書かれた1849年当時の主君グエン朝ではなく、その前の後黎朝でしかも200年前の皇帝だったから問題ないと判断したのではないでしょうか。そもそも家譜は、身内向けの本ですし。

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漢文を読み書きできるような名家では、20世紀になっても家譜が作られた

そんなあくまで一族・身内向けに書かれたものが、1976年の書籍化で検証もせずに史実として紹介されてしまい、それを読んだ人達がこれは凄い人物・出来事だと感動し、いつの間にか公式な歴史事実となり教科書等にも掲載?され、現在でも広く真実として信じられているのではないかと。

イメージしやすいように現代風に言えば、仲間内で楽しむ目的でSNSにUPした動画がいつの間にか転載されまくって世間では大騒ぎになっており、作った本人もびっくり仰天だけどもう無かったことにはできない・・・といったところでしょうか(笑)

6. 時代がそれを歴史として必要とした

そしてもう1つ、これらの本が書かれた時代背景から見えてくるものもあります。

1849年時点では、既にグエン朝の宗主国である中国・清朝がアヘン戦争(1840~1842年)に敗れており、ベトナムにもフランスからの軍事的圧力が高まっていた時期でした。

あまり知られていませんが、家譜が書かれる直前の1848年4月15日にはフランス軍艦がグエン朝の船4隻を2時間の戦闘で撃破する軍事衝突が起こり、怒った皇帝はベトナムで捕らえられたすべてのヨーロッパ人をその場で処刑するよう命じた事件もあったとされます。そして9年後の1858年にダナンでフランスとの戦争が始まります。

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それゆえ相手が大国であっても、たとえ命を失っても誇りをもって堂々と立ち向かい決して屈しない、我が家はそういう家柄なんだ・・・というのは、科挙合格者を出すほどの名家、国を率いていくと自負する支配階層なら当然と持っていた感覚で、それを子孫に伝えるべく家譜にも反映されたのではないでしょうか。

1976年に本が発行された時は、世界最強アメリカ相手のベトナム戦争に勝利して民族の誇りが最も高まっていた時期でありつつも、中国との関係が悪化しつつあった時でもあります。事実3年後の1979年には、中越戦争が起こります。そんな時、大国に対して一歩も屈せずに殺された江文明のような人物は、社会主義国ベトナムであるべき人物像・モデルケースであったのではないでしょうか。

南沙諸島_国境標識

そして現在、中越が領有権を争う南シナ海の島々において、現代の銅柱が次々と築かれ支配が既成事実化している中では、今もこの逸話が"歴史として"必要とされているのだと考えられます。

一方で、現在ベトナムにおいてもあくまで歴史は事実だけを扱うべきだ、子供が学ぶ教科書などで事実では無い(または真偽不明な)事柄を、さも本当に起こったこととして掲載すべきではない!といった考えを述べる人たちも出てきています。

TRÍ DŨNG SONG TOÀN - CHUYỆN VỀ GIANG VĂN MINH Mở đầu sự việc Sách giáo khoa tập đọc lớp 5 tập 1 có một bài tập đọc đề "...

Posted by Lịch sử + on Sunday, April 19, 2020

かつてイギリスの歴史家Edward Hallett Carrがその著書で述べた「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」。

この逸話を歴史とすべきか否か、まさに今現在も過去と対話しその答えを求め続けている国、ベトナムの姿がそこにはありました。

7. 誰も知らないようなベトナム歴史秘話を他にも書いています

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最後にちょっとだけ追記。明王朝の冊封下でも独立国と書きましたが、主権国家同士が対等という考え方や概念は、この出来事から11年後の1648年ヨーロッパで締結されたウェストファリア条約からと言われておりそれ以降、国家主権の及ぶ範囲である領土や国民というものが次第に明確となっていき、国民国家が形成されていきます。よってこの時代の東洋において特に中国皇帝から見ては、現在の国家間の領土・支配地という概念や認識とは、異なるとも考えられます。それを相手国代表に言うかどうかは別として。

あとこの話は、相手が猜疑心が強く暗君でありつつも一方で比較的頭が良かったとされる崇禎帝だったからこそ、銅柱の故事を持ち出せてさらに反論の意味を理解することができ、登場人物的に物語が成立するのかなと。相手がこの出来事の10年前に亡くなった先帝、本業が大工で一応「皇帝」もやっていた天啓帝なら、登場人物的に物語が成り立たなかったのだろうなと思うのは筆者だけですかね(苦笑)

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