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「応援ありがとう!」は得難いモノへの感謝の気持ち

「応援ありがとう!」という言葉は、スポーツ大会でよく耳にする。

スポーツ界や芸能界などの引退会見では、「活動をここまで続けて来られたのは、みなさまの応援があったからです」という表現も聞く。

いずれにせよ、応援があったことへの感謝の気持ちを述べているのだが、この言葉にはどのような意味が込められているのだろうか?



応援に対する感謝であるし、それ以上のものはないと言いきってしまえばそれまでのこと。だが、他人からの応援自体がとても得難いモノと捉えるなら別の見方が生まれるのだ。

人は原則、自分の命を護ることを最優先に生きている。表立って誰かを攻撃するほどの異常なメンタルを持っていない人であっても、「自分可愛さ」を持っていることで正常なメンタルを保っているのだから。

つまり、「他人を応援しているどころではないという心理状態」や、「他人の足を引っ張りたいという心理状態」があって当然のところ、「応援する」という行為をすることに意味があるのだ。



応援が力になる。このことが、どんな意味を持つのか過去の私はわかっていなかった。マラソン中継のとき沿道で旗を振る人々を見て、それほど意味のあることだと思えていなかったのだ。

だが、他人からの応援は、とても得難いモノと知ると、マラソン中継で、沿道で、あれほどの人たちが「得難いモノ」を与えていることが、とても貴重な情景に思えてくる。

「応援」を、珍しいモノであり、稀有なモノであり、滅多に人生に起きるコトではないと捉えると、こんなに大勢の人が応援をしている素晴らしことだと思えてくるのだ



たった一人からの応援ですらありがたいこと。

だからこそ、見ず知らずの多くの人から「応援の気持ち」を差し出されたとしたら、感謝をせずにいられないのだろう。

努力を重ねてきた人であればあるほど、他人からの妬み妨害行為を見聞きしてきたと容易に想像できる。それだからこそ、応援されることの重みを実感できるのだ。

アンフェアすれすれに「足を引っ張る人」も周りにいた可能性は非常に大きい。メディアに叩かれたり、SNSの狂気に晒されるトップアスリートや各界著名人だからこそ、感謝の気持ちはより一層強く感じるのだろう。

あらゆる「障害」を乗り越え、粛々と努力を続けてきたとしたら、応援のありがたさを誰よりも痛感するのは、当然の成り行きなのだ。



一方、普通の人はどうだろうか?普通の人、即ち、一般人と呼ばれる私たちのような存在だ。

一見わかりにくいかもしれないが、一般人であっても応援は得難いモノであることに変わりない。

一般人であっても、さりげなく「障害」は日常に出没するからだ。近しい間柄だからこそ感じる妬み嫉みがエネルギーとなって生まれる「障害」もあるのだ。

つまり、トップアスリートや各界著名人ではなくとも、他人から応援されることは得難いことなのだ。



他人から応援されること。

それは、珍しいモノであり、稀有なモノであり、滅多に人生に起きるコトではない。

だから、もし誰かが応援の気持ちを向けてくれたなら、得難いモノへの感謝の気持ちを込めて深く感謝しよう。

「応援ありがとう!」と。