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一人称を「私」にこだわって書くわけ

自分自身のことを何と記しますか?

自分自身のことを何と呼びますか?

おそらく「わたし」と書いて、「ワタシ」と心の中で呼んでいる人が多いのではないかと思います。

私は、「私」と書くことにしています。そして、読み方は、その時々によって様々です。

本来なら、フリガナをつけて、こちらの意図が通じるようにするべきなのでしょう。けれども、私は、一人称を「私」と記すことで、その時々で好きなように呼んでもらうことを是とし、敢えてフリガナをつけていません。


ちなみに、私は、相手によって、前後の文脈の中で、様々な呼び方をしています。

ワタシ、ワタクシ、アタシ、アタイ、アチキ、アシ、ワシ、ウチ。

だいたいこんなところでしょうか。

これほど多様に一人称の呼び方が変わるのには理由があります。それは、私自身にとって「私」は他者に対しての一人称であるからです。

接する人の数だけ私は存在します。つまり、これは、対他的な「自分」の窓口。

自分の外側にある自己の姿。

それに対して、私は「自分」というものを内面の一人称として使い分けています。

つまり、自分は自分でしかないけれども、私は多様性を持ってるということ。

私は、その場に相応しい自分自身の側面を引き出した自己像で、かつ、対外的な「あるべき姿」、即ち、自分が置かれた立場に相応しい役割を演じていることも。

人間関係を円滑にするために自分なりに必死に考えてたどり着いた方法です。

対外的な自己像と自分の内面との住み分けは、普通の人は難なくこなせることかもしれません。でも、私には難なくこなすことができないから、何か方法はないかなと思案しました。

「私」と「自分」を切り離すために、自分の納得できる形を考えたのです。


どこへ行っても「自分」は自分。誰と接していても「自分」は自分。

それに対して、行く先々で「私」は変わる。接する相手にあわせて「私」も変わる。

この言葉使いにたどり着いたのは、遠い昔、眠れぬ夜のことでした。

まさに私にとって眠れぬ夜は「恵み」だったのです。